1年生は奴隷、4年生は王様・・・よく覚えていないが、2年生の先輩からそんなことを吹き込まれた入部当初だったが、後に他団体の同級生と付き合うようになって、我がボディビル部は意外と民主的な集まりだなと思ったものだ。
入部時2年生はたった3人。同級生は、そうだな・・・最終的に自分含めて4人と女子4人が4年生になっていたが、当初は15人ぐらい部員がいたはず。1回参加して消えた奴、学生服を着たくなくて辞めた奴など。先輩からは「夏合宿後に固まるよ」と聞いてはいたが、果たしてボディビルで夏合宿?という疑問が湧いたのだった。
当時の合同トレーニング、つまり部全体で行うトレーニングは、月・火・木・金がバーベルを使ったトレーニングで土曜日は皇居1週を含めた陸上でのトレーニングだった。ボディビルダーとは言え、走れないようではアスリート足りえないなどという考えがあったのか分からないが、受験勉強でなまった身体には皇居1週は随分堪えた。まあでも、前期が終わるころには馴化したらしく、そこそこ楽に走れるようにはなった。そのおかげか、体育の授業では12分間走を3,000メートル近くまで走れる力が付いた。
本来は短距離ダッシュが筋肉をつけるために有効なのだが、マラソン選手やトラックの長距離選手ほど走るわけではないので、皇居1週は無駄ではなかったのだ。ゆっくり走ることで、走ることに使う筋肉や、その筋肉の無駄のない動きを得るには走るしかないわけで、バーベル運動で筋肉をつけても、それを走りに生かすには走らなければダメなのだと18歳にして悟った。今思えば我ながら気づきが早い(笑)
当時は前期と後期の締めの会があり、所謂飲み会が開催されていた。名だたるOB諸氏が会に参加されるということで、上級生からは相当口うるさく注意点を毎日聞かされた。ビールはラベルを上にして注ぐ、飲めなくてもグラスは必ず携行する、グラスは両手で持つ、などなど。当たり前と言えば当たり前だが、今の時代「面倒くさい」と敬遠されてしまうような内容だ。
思い出したが、OBに回会の案内を郵送することは2年生の指導の下、1年生が行なっていた。往復はがきにOBの住所以外を昔ながらのガリ版刷りみたいな道具で印刷していくのだが、インクが多すぎたりして印字した字が全く読めなかったりと、ずいぶんハガキを無駄にしたものだ。プリントゴッコが使えるようになったのは上級生になってからで、「今の1年は楽でいいな」と異口同音に話したものだった。
そんなこんなで前期が終了。でも、これで解放されたわけではなかった。上級生らが口々に「地獄の合宿」と言われる夏合宿が待ち構えていたのだった。そのための旅費づくりは、お中元の時期と言うこともあり、日本橋の高島屋さんに入っていた運送会社の助手を部員総出で行うことになっていた。自分は自分で何かアルバイトをやろうと考えていたが、体制に押し流されていったのだった。
そういうわけで世間では当時すでにポピュラーであった「五月病」などにかかることも無く、有意義な学生生活であったと言えるだろう。ただ、疲労のため2か月に1度ぐらいは高熱で寝込むことがあり、心配ではあった。