1年時に出場したボディビルの大会は、秋開催の関東学生新人戦(1,2年生対象)だけだったが、関東学生大会ではその年に学生チャンピオンになった松山先輩のセコンドを仰せつかり、会場で応援するというわけにはいかなかった。
当時、法政大学は学生ボディビルのメッカとして全国の大学の、それもボディビルに春を捧げるバーベル学生ら(随分世界が狭いが)の憧れの地だった。もちろん学生運動の拠点でもあったのであるが、この話は日を改めて。
関東学生大会では松山先輩の優勝はほぼ確実視されていた。ボディビルの大会の順位は、大会までの準備がどううまく出来たかで決まるもので、会場で一発逆転はあり得ない。もちろん秋に行われる東日本学生大会で全日本学生大会への切符を掴んだが、調整不足で2,3位に甘んじた選手が劇的に変化を遂げて、全日本で東日本、西日本等の優勝者を蹴散らして優勝ということもあるにはあった。
当時はオープン参加制度があり、前年まで東京大学の学生として関東学生大会で3位を得てた北村克己が学生とは思えない巨大なバルクを披露。圧倒的な身体を観客に見せつけ、魅了した。大会後の松山先輩の表情は冴えず、やはり全部ひっくるるめたら勝てなかっただろうという思いがあったのかもしれない。カテゴリーが違うとはいえ、同じステージに立てば、圧倒的に勝ちたいと思うのは当然。自分も何もかける言葉がありませんでした。
東日本大会で全日本大会への出場権を得た先輩らにとって立ちはだかるのは例の学園祭で、自分が1年生の時、3年の先輩で出場者はいなかったのであるが、その後自分らが上級生になるに従い、下級生で力をつけてきた連中がその洗礼を受けることになった。当時はまだ言葉さえ知らなかったが、あの激務で疲労するだけならまだしも、疲労が抜けないでいると筋肉を削って身体を保とうとする働きが生まれ、これをカタボリックであると後に知ったのだったが、まさにそれを心配していたのだ。
当時は東日本勢が飛びぬけており、全日本学生の結果は1位松山(法政)、2位岩間、3位江口(東京)と表彰台を関東勢が占めた。2,3位はまだ2年生であり、来年もこの二人を中心に学生ボディビル界は展開していくものと思われた。このあたりのことはこちらのページに詳しいので掲載しておきます。 早稲田大学バーベルクラブのOBが書かれているようです。http://www.gungoo.com/exercise/backnumbers/bn015.html