夏と冬のアルバイト

全日本学生大会が終わり、4年生は完全に引退。後期の最初に幹部交代式を終えて、1年生は正式部員として認められたとはいえ、この大会が終わってやっと正式に幹部交代となった感があった。新幹部の先輩方は大人数で、キャラクターもバラエティに富んでいた。女子の先輩が二人いたのだが、合同トレーニングで顔を合した記憶があまりない。男子の活動欠席には厳しい態度な先輩らも、女子部員の欠席には甘かったのか?

12月の半ばあたりから部員全体で日本橋の高島屋のアルバイトをすることになっており、自身が継続して従事しているアルバイトが無ければ全員が高島屋アルバイトに就くことになった。ただ、働くのは高島屋の店内ではなく、北別館の中にある作業場で、通称「トラック班」と呼ばれていた。西多摩運送という運送会社の下で働くことになり、外商が扱う御中元の品物をトラック(実際はハイエースなどのVAN)で運ぶのだ。ただ、運ぶ人は全員が社員ではなく、繁忙期にスポットで着ていたドライバーさんもいた。

アルバイト先はアットホームな雰囲気で、所長や経理関係担当のおばちゃんが穏やかで優しい人で働きやすかった。ただ、しばしば終業時刻が21時過ぎになることが多く、翌日授業内試験がある時などに限って残業だった。また、真面目な部員は授業内試験があるときは朝出勤して一旦抜けて、試験が終わると再び高島屋へ戻り働いていたが、試験のある日は全休にしていた俺。

このアルバイトは夏のお中元の時期に既に経験済であった。1年生当時、東武練馬駅の近所にひとり住まいだったので、そこから日本橋まで超満員電車で疲弊しながら通ったはずだが、記憶には無い。あるのは大学の最寄り駅である飯田橋駅から東西線を使って日本橋まで通った記憶だけだ。当時、東西線は社内冷房が無く、扇風機がビュンビュン回っていただけだが、よくぞあの環境で皆耐えたものだと思う。経済状況の良い頃だったので、満員電車もさほど気にならなかったのか、当時のサラリーマン。

このアルバイトでいくら稼げたかは全く記憶が無い。夏合宿の支払金額は6万円ちょっとだったが、おそらく仕送りの一部と合算して支払ったと記憶している。冬のお歳暮時期のアルバイトは、後に合宿を控えているわけではないので、稼いだ金は全て自分のために仕えたが、だいたいがプロテインやおいしい食事に消えた。学生時代からエンゲル係数の高い生活は今も同じだ。

さて、1983年が明けて1984年となった。最初の行事は冬合宿。それが終わると入学試験のアルバイト。授業期間以外にもこうもたくさんの行事があるというのも妙なクラブ活動だなと思っていた。詳しく説明すると法政大学ボディビル部は体育会所属ではなく、学生団体連合という学友会のひとつの団体だった。他の武道系クラブと親睦団体を組織していたが、これは「自称」団体で、学内では通称だった。

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