トレーニング日誌

手元にあるトレーニング日誌は1983年9月27日から始まっている。当初はウオームアップを含めた総セット数が書いてあるだけだ。反省文の中に徐々に重量と回数が書かれるようになり、10月末になって現在も続いている書き方になっている。例えば100キロを10回の場合10/100のように記入し、補助を受けた場合は10の後に(2)と書いたりしていた。では、それまで重量と回数を書かなかったのかと今考えると、それほど重量に対する意識が高くなかったと言える。あるいは重い重量を扱う勇気が無かったのかも知れない。また、ベンチプレスのトレーニング後に右肩の肩峰部分にしつこい疲労が残り、そこを解すのが大変な作業で、電車に乗って帰宅する間もずっとマッサージしていたのだ。幼い頃からボールを投げる動作で肩に引っ掛かりを多少感じていたので、そのせいだろうとは感じていた。在学中に有名な整形外科にもかかったが、当時の日本の整形外科は肩関節に対する見識がおそらく低かったのだろう、納得できる治療を受けることはできなかった。もちろん外傷による肩関節の治療は一般的だったが、自分の肩の場合は一流の整形外科医でも対処に困ったのだろう。

さて、日誌に重量と回数を記入する内に、重量に対する意識が芽生えたらしく、11月10日にスクワット130キロ、11月16日ベンチプレス90キロと目に見える結果が出始めた。ただ、これは狂気の学園祭の直前であり、祭りの後はグッと記録は落ち込むであろうと覚めた気持ちでいた。11月26日の日誌に試合形式の結果が書いてあるのだが、おそらく部内の記録会だろう。そこにはスクワット第1試技120成功、その後130を失敗。ベンチプレスは第1試技80成功。だがそれ以降85キロは失敗。デッドリフトも第1試技の170で打ち止めで、その後の試技は失敗。学園祭なのでこのぐらいの落ち込みは仕方が無いし、想定内。冬にしっかりトレーニングしてヘビーウエイトで悠々とトレーニングできるようになりたいと願ったものだった。

当時からトレーニングメニューを作成するのが好きで、トレーニングに行き詰ると何かしら書きたくなるのだが、その通りにやった試しがない。というより種目数やセット数が多過ぎたのだ。当時はアーノルド・シュワルツェネッガーが人気で、彼のトレーニングを真似していたこともあって膨大な量のトレーニングをこなせば、あんな体になるものと思い込んでいた。彼以前にも日本の須藤幸三氏がミスターユニバースで優勝し、末光健一氏も同じくミスターユニバースで優勝しており、彼らのトレーニングが想像を絶するボリュームであったことも、量をこなすことこそデカい筋肉獲得への道だと信じて疑わなかったのだった。

1年生として過ごしたボディビル部の1年で、スクワット130キロ、ベンチプレス90キロ、デッドリフト170キロまで到達したわけだが、ボディビルのためのトレーニングという考えを完全に捨てられたのは2年生の新人戦後になった。


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