脛骨高位骨切り術の術後経過について

無事、正常とされる血圧(130-70程度)に落ち着き、一旦退院した後再入院し、1月29日(水)午前9時過ぎに手術室へ入室。当初30日(木)のはずだったが、27日(月)入院時に「水曜日になりました」と看護師からサラっと言われ、「じゃあ、夜「相棒」観れるかな」とどうでも良いことが心配になった。今となっては観たかどうかさえ記憶にない。

メインの手術は右脚の脛骨の内側、膝関節に近い部分を文字通り「骨切り」して、その箇所をグイっと広げる。見た目(見たことは無いが)楔の形になる。そこで、荷重が大腿骨、脛骨の中心を通るように楔の広げる角度を調整するのだ。広げた状態でメタルプレートで固定し、楔を人工骨で埋めていく。この時、化骨がうまくいくように人工骨をいかに埋めるかが重要なのだそうだ。(執刀医談)

無事、人工骨を埋め込んだら、患部に血抜き用の管を入れ皮膚を縫合。メタルプレートはそこそこ大きくて、その部分を触ると当然硬い。異物が体内に入っているだけに妙な感じだ。術後は3時間寝たまま。尿用の管は麻酔が切れる前に抜いてもらったので、尿意を感じだと気は、痛みに耐えて自ら尿瓶を使っておこなった。だが、3,4回目まで、尿道が強烈に痛んだのだが、あの痛みは二度と経験したくない。

メインの手術と書いたが、ではサブはあるのかと思われると思うので、ついでに書いておく。実はもともとの膝痛の原因は半月板損傷で、内側の後方の箇所が痛んでいた。同時にその部分の軟骨も傷んでおり、この2つについては、骨切りに先立って手術を行なっている。内視鏡での手術だが、東京逓信病院はこの分野では世界的に有名なようだ。

術後の幹部の痛みは筆舌に尽くしがたく、今思い出してもゾッとする。でも、手術はうまくいったわけだし、痛いのは生きてる証拠だと言い聞かせ、我慢強くリハビリに耐え、術後1週間あたりから、ストレートレッグレイズがなんとかできるようになった。当初は両手で支えないと上がらなかった右脚だが、おそらく筋力が無くなったのではなくて、痛みによって脳が筋力を発揮しないように制御していたのではないかと思える。

現在のリハビリは体重の半分を右脚にかけることができるレベル。明日(2月19日)で術後3週間になるが、おそらく体重の4分の3までの荷重にレベルアップされるはず。予定では術後4週間で退院だが、その時の自分が全く想像できないので、今からやたら不安に苛まれている。おそらく松葉杖無しでの歩行は無理だろう。

高血圧治療、心臓左心室異常、その他について

脛骨高位骨切り術を受ける術前検査で手術が延期されたことはすでに書いた。で、今回、循環器内科の医師から指摘された件についてメモ的に書くとめておくことにした。

まず、高血圧。これはすでに10年以上前から150-90ぐらいの血圧があった。町内の医療機関では薬によって一時的に血圧を下げると同時に、食事やサプリメントで正常値を維持する方向となったが、薬の処方がだんだん面倒臭くなり、次第に薬を飲まなくなってしまった。降圧剤等を副作用があるとして、使用しない方が良いという内容のブログなどの影響もあったが、血圧が高い高いと言われ続けてうんざりしてしまったというのが本音で、血圧と聞いただけで嫌な気分になったものだ。今でもそれは変わらない。

巷の健康に関する書籍やネット上の記事を見ると、降圧剤の副作用のことが数多あり、次第に150-90でも問題無いのではないかと考えるようになった。実際、Facebookのあるグループの記事内容を基に判断すれば、150-90など高血圧でも何でもなく、50代としては当然このぐらいあって可笑しくない値と言える。ただ、全身麻酔で手術を受けるとなると話は違う。数値的に問題無い範囲に値が無いと、手術はできないのだ。そういう意味では今回の術前の2週間の入院は一時的に血圧を下げるだけが目的であり、一時的な処置だった。

骨切り手術後も血圧の治療は継続されるが、降圧剤だけは御免。高血圧の原因は多種多様だが、自分の場合は過体重。食事も多少影響しているが、血糖値は正常で糖尿病の兆候は全くないので、多少なりとも体重、つまりは体脂肪を減らすことに専心すべきと考えている。やるべきは糖質制限とメガビタミン、ミネラル、高蛋白質の食生活であるが、今までより少ない量でこの食事法を全うするのは少々難しい面もある。自炊すれば良いではないかと言う意見があるが、自炊は案外たくさん作ってしまいがち。コンビニやオリジン弁当をうまく利用すいるのも手だ。

心臓の件は寝耳に水だった。異常とまでは行かないけれども、左心室の動きが数値化されたデータから判断して、動きが弱いのとのこと。左心室も含め、造影剤を投与してのCTスキャン検査では血管等に問題は見られないとのこと。左心室がおそらく血圧が高いために疲労しており(血液を押し出す力がより必要)、それが原因だろうとのこと。結局は高血圧に帰結するのだ。

その他、指摘のあった件は低カリウム症と原発性アルドステロンがあったが、文章化するには非常に難儀であるため、今回は省くが、アルドステロンについては副腎のCTスキャン撮影で問題無しと診断された。副腎に良性の腫瘍ができて、それが血圧を上げるホルモンを分泌するというのだ。血圧が高いからと言って、投薬一辺倒では治療としては不完全で、なかなか血圧が下がってくれない場合はこれを疑ってみることも必要だと思った。

低カリウムもさまざまな要因が重なって発症しており、カリウムのサプリメントを摂取するなどという方法で治療できるものでは無いと思ったが、医師のとりあえずの指示は「バナナを食べなさい」だった。ちょいと拍子抜けしたが、それ以降、1日2本は食べている。果糖を避けたい気もするが、カリウム補給のためならと我慢して食べている。

さて、整形外科の手術とは言え、内科検査で問題無しと診断されない限り、手術は受けられません。ほとんどの手術は全身麻酔で行われます。まさかの時のために、血圧の正常化と、内分泌関連の検査を年に一回で良いので、受けておくことが大事だと思います。

正直、本来の手術前に2週間も血圧等の治療で入院する羽目になり、憂鬱な時間を過ごしましたが、今となっては悪い箇所とその症状が判明したので、かえって良かったのではないかと思います。

さて、1月30日が手術予定日です。現時点では脛骨高位骨切りに併せて、半月板の補修作業も行われます。おおよそ5時間ぐらいかかると聞いています。途中で麻酔が切れませんように!


ボディビルランキング

入院するも手術は延期!

恒例のフィリピン・セブ旅行から昨年末30日に帰国し、翌日の大晦日に愛知県の実家へ帰省。母が昨年7月末に急死したため、27年前に亡くなった父と母の遺影が待つ実家へ帰省することになった。5か月閉め切っていたため、早速全窓、扉を網戸にして冬の冷たい空気を入れた。幸い大晦日は暖かく、夕方になっても寒さを感じるほどではなく、天候に感謝。それでも日没後はさすがに冷える。夜8時頃にすべての窓、扉を閉めた。

誰もいない実家で独り寂しく正月を過ごし、5日朝の新幹線で帰京。誰かと会ったかと言えば、隣に住む叔母(母の弟の嫁さん)と焼き肉を食べに行ったことだけだった。

新幹線は今回初めてネット予約してみた。前の日の昼過ぎあたりだと、のぞみの指定席がそこそこあったが、夜になると軒並み売れてしまっていて、結局ひかりのグリーン車を買う羽目になった。今回のセブ行き帰りはビジネスクラスだったので、新幹線もグリーン車でもイイやって気分だったので、迷わず予約。というか選択肢はグリーン車しかなかった。

さて、ここからが本題。1月7日に入院し、8日に脛骨高位骨切り手術を受ける予定だったが、術前検査で心臓の左心室の動きに多少問題があるため、手術は延期となり、まずは心臓のケアをすることになった。加えて血圧が相当高いため、こちらも投薬によって抑える治療を受けることになった。それに伴い、整形外科病棟から循環器科病棟に転院。当初190-110ほどの血圧が148-86にまで下がったが、主治医は「130以下を目指して治療します。そしうしないと膝の手術で全身麻酔が心配だからね」と。

当初は入院期間が延長され、なおかつ、循環器治療の結果いかんでは、膝の手術自体も無期延期になってしまうのではないかと言う危惧に苛まれ、イライラが募ったが、次第に、心臓に不具合が見つかって良かったのではないかと思る様に心境が変化した。確かに、膝は痛くてもロキソニン飲んで、松葉づえついて歩けるが、心臓にもしものことがあれば生命にかかわるのだ。当然、治療のプライオリティは心臓ということになる。

14日に心臓の血管の検査を行い、結果いかんで膝の手術をやるやらないが決まる。主治医は「たぶん、大丈夫だろうと思うけど」と多少楽観視しているが、やはり診てみないと確固たることは言えないのは当然。全身麻酔というのはそれだけリスクのあるものだということだ。


ボディビルランキング

おそらく手術となる見込み

全回の半月板損傷の件からずいぶん経過してしまった。あれから新たに病院を探し、セカンドオピニオンを求めることにした。結局、東京逓信病院で診てもらうことにした。9月20日に右膝のMRIを撮影し、その先週に撮影した左膝の結果を踏まえて、整形外科の平岡先生の診断を仰いだ。

結論から言うと「手術」しかないとのこと。と言っても膝関節にメスを入れるのではなく、大腿骨と脛骨の成す角度を今より限りなく180度(実際には170度ぐらい)に近づける「脛骨高位骨切り術」と言う手術を行うと言うのだ。先生自身、これまで多くの膝関節症患者のMRIを観てきたわけであり、自信満々に「手術」と云うには、予後も良好であるはずとしばし安堵するのであるが、やはり「手術」自体に不安はある。

手術は2時間もあればできるらしいので、それほど体力を削ることもないが、その後の入院が最低3週間もあるのだ。ベッドの差額題でいくらかかるんだよ!って叫びたくなる。ネガティブな面をさほど気にする必要は無いと思うが、多少の痛みは残ることと、脛骨の角度が変わるので、足首への圧のかかり方も変わるはず。その際は足底板で微調整するのだが、そんなもの一生付けていなければならないなんて御免だ。足底板入れなくても足首に支障が無い程度の角度調整であって欲しい。

まず、症状の重い右側を手術。時期的には1月末かな。で、1月後半と2月前半は入院生活して、すぐに職場復帰できればいいのだが、多少の期間自宅療養させてもらい、復帰は2月後半ぐらいを考えている。28歳の時に交通事故で入院した時、退院したのが10月6日あたり(事故が8月16日)で、その月は自宅療養させてもらったので、似たような措置になるはず。

左は右側の脛骨が化骨して歩けるようになってからになるが、最低でも半年ぐらいかかるとのこと。骨を固定しているチタン合金を取り外す手術があるのだが、これは入院に必要はあるのだろうか?左は右と同じ時期にするのが良いとは思っているが、医師も冬季に行なう方が金属固定している部分からの感染症のリスクが低いので、冬季を勧めている。

当分不自由な生活になるが、少し前にパラ水泳世界選手権で観た、障害を持つ選手らの力泳を見て、「彼らに較べたら、膝の痛いのぐらいかすり傷だな」と思う。多少の痛みは残っても、快活に歩ける生活に戻るために、ワクワクした気持ちで手術に臨うと思う。


ボディビルランキング

半月板損傷による今後の人生

今日はちょっとだけ個人的な、嘆きに似たような内容を書いてみようと思います。そんなもの聞きたくないよ、って人はページをクローズしてください。

ここ1年程前から膝の内側が痛み出しました。当初は鵞足炎や単なる大腿部の筋肉の硬化による関連痛だと思っていましたが、近所の整形外科で軟骨がすり減っている云々と診断され、順天堂病院では半月板が飛び出てきていると診断されました。気持ちの上では手術などする段階では無いので、他の治療を模索しました。まずは血液を採取し、それを遠心分離器にかけて血漿を取り出し患部に注射するPRP療法を試しました。1本36,000円ほどの注射を計3回。10万円ほどかかったわけですが、これにより痛くて歩けない症状からは脱しました。そうこうしている内に、今度は左膝に異変発生。右膝のあれだけ痛かったことを忘れてしまったのか、左膝の激痛、鈍痛に耐えられず、松葉杖まで購入したのです。何しろ足を地面につけるだけで内側に劇痛が走ります。

縁あって先日、東京逓信病院を受診しました。この病院は日本で初めて膝関節の内視鏡手術を行った病院で、膝の治療の症例はおそらく日本随一だろうと思います。先生を選べるので、整形外科で一番格上の先生を指名。診察が始まった頃は厳しい表情でしたが、レントゲン撮影を終えてから再び診察していただいた時は、なにやらにこやかな表情に。

様々、膝について会話をするうちに、「土屋さん、よく勉強されていますね」と先生。確かに勉強はしているけれど、それは医師が云うことをすぐさま理解できるようにするためであり、決して医師に対抗して意見を言うためではないのであり、先生がどちらの意味でそう言われたかは不明ですが、私の信条はこの通りです。

近々、両膝のMRIを撮影してからになりますが、もしかすると脛骨高位骨切り術と言う手術になるかもしれません。これにより、O脚により間が狭くなった膝の内側の関節が開き、外側と均等になることで、痛みから解放されるというもの。脛骨の傾きを変えるために骨を削る行程があり、張骨を移植するため、入院は3週間ぐらいの予定。こうなると独身者である自分の世話を頼む人が必要な訳で、手術よりこのことの方が心配の種。

両膝とも同じオペを行い、痛みも無く復帰できれば、今以上に視界が開ける気がしている。膝が痛いとあきらめざるを得ないことが多くなり、精神的にも苦痛なのだ。また、復帰と言ってもパワーリフティング選手として復帰するなど考えておらず、一般的な日常生活ができれば本望だ。だが、上半身はなんともないので、ベンチプレッサーとして復帰、再出発しようかと考えている。いや、すでに決めたのである。

なので、膝が痛くない日はトレーニングをするようにして、軽い重量でも良いから、マシーントレーニングでもいいから、身体に刺激を入れて行こうと思う。幸い膝痛を抱えてから、長年硬さが取れなかった右の脊柱起立筋が何故か解れてきているので、好都合である。

人生、いつまでも上手く行くとは限らない。困難や障害がある方が普通だろう。自分の膝痛もその内だと思って、対処していくしかないのである。

昨夜深夜に、パラ水泳世界選手権大会を観た。腕や脚を失ったスイマー達が驚くべき記録で泳ぐのだ。気が付くと涙流しながら観ていたのだった。彼らに比べれば、自分の膝痛なんてかすり傷ぐらいのモノだろう。彼らに恥じない自分になれるように、膝の治療、回復に専心しようと気持ちを新たにした。


ボディビルランキング

社会人になってからのトレーニング

無事大学を卒業し、めでたく法政大学に職員として就職した。当初、消防か警察を考えていて、それならば実家のある愛知県に戻ろうと思っていた。警視庁と母校しか内定がなかったのだが、伯父(愛知県警OB、元予科練)の一言でやめた。その一言に父も母も一言も無かったのだが、いつも一緒にいる父母以上に僕の性格を見抜いた伯父の凄さを感じた。「お前は正義感が強過ぎる。そういう人間は警察には向かない」だった。この言葉からさまざま連想できるが、既に鬼籍に入った伯父に聞く術もない。正義感が強くて殉職し易い?正義感が強すぎてグレーゾーンを飲めない人間には厳しい世界?おそらく、俺のような性格では警察社会では潰されてしまうという意味だったのだろう。今考えても、警察行かずに良かったと思えるのだから、伯父に感謝しなくては。

細かな記録の変遷は次回以降に記すとするが、大学4年間で基礎的な身体が出来上がっていたようで、記録の伸びは顕著だった。これまで採用しなかったチーティングを利用したベンチプレスでは170キロまで押せるようにはなったが、今思うのはすべてが「怪我の元」のトレーニングだったと言える。やはりバウンドさせる(特にベンチプレスでは)やり方は、特に肩関節に著しい不可となる。疲労がまたっていれば胸筋断裂も起こしかねない。胸筋は意外と疲労が溜まりやすい部位で、定期的にセルフマッサージを行なったり、鍼治療院で胸筋がバーンと震えるぐらいのレベルの鍼を打ってもらったものだ。

スクワットはベルトだけで220(225だったか?)キロまで立つことができた。ただ、スーパースーツやニーバンテージの利用についてはそれほど真剣に取り組むことがなかったため、装着しても記録がそれほど稼げたわけではなく、やはりどこかジムに所属していればと後悔している。つまり、パワーの選手としてたった独りでトレーニングしていたのである。

デッドリフトはスナッチ式のフォームで随分練習を積んだ記憶があるが、200キロぐらいは引いただろうか?でも、試合で採用するのは相撲スタイルだったので、このフォームでヘビーウエイトを扱えるフォームを追求すべきだったと言える。試合では245キロまで引いたのだが、ピーキングで240を失敗して臨んだ試合での記録で、引いた後驚いたことを覚えている。

なんだか、後悔満載の内容になってしまったが、これからもし指導する、指導できる立場に立ったならば、自身の遠回りパワー人生を教訓に、極力無駄のないトレーニングを若い気人たちに示していきたいと考えている。

近年、ボディビル大会とは別の審査基準のフィジークコンテストが盛んだが、所謂「細マッチョ」ではない綺麗なプロポーションと端正な顔立ちの青年たちがステージを彩り、華やかになったものだなと感じる。自分の学生時代のボディビルコンテストはアングラ、サブカルチャー的な香りがプンプンしていて、非常にマニアックな世界だった。もちろん私的見解だが、そんな世界からもっと一般的に知られるようになてきたことは、身体を鍛えることが特別なことではないことが一般的になることに繋がっていくものと思えるのだ。

自分は今、両膝の半月板がダメになり、パワーリフターとして復活できる道はほぼ無くなってしまった。よってベンチプレッサーとしてゼロからスタートすることを今日決めたわけである。上半身だけデカくて下半身が一般人というのは妙な体型だが、今まで自分が持っていたどうでも良いプライドやこだわりはすべて捨てて、新たな道を切り開いていこうと思います。

なんだか、所信表明になってしまった・・・。


ボディビルランキング

トレーニング日誌を読み返す 3

無事4年生になり、正真正銘の幹部となったわけだが、すでにボディビルのためのトレーニングからは離れ、完全に扱う重量を増やすことに特化したトレーニングに邁進した。以前として後輩部員らと班を編成してベンチプレス、あるいはスクワットに取り組む毎日であったが、試合を想定した場合、20キロバーで練習したかったため、何かしらの工夫が必要となった。だが、当時のトレーニング日誌を読み返しても、ボディビル部の練習場でトレーニングしたのか重量挙道場でトレーニングしたのかが判然としない。

今更そんなことを思い出そうにも、すでに30年以上前のこと、日誌に書いてあっても、何のことを書いているのかわからないこともあるのだから、記憶にあるはずがない。ということで、1986年度の記録の変遷を見て行こう。

この年度は言うなれば「低調」の年度であった。数字的には大した伸びも無かった。ただ、試合では練習でやれた重量はこなせていたので、まあ及第点としたい。低調とは言えスクワットは最終的にベルトだけで190キロ行けそうなところまで伸び(180キロ5回2セットを1月17日に達成している)、ベンチプレスは低回数をやめて8回を狙うトレーニングに変更している。日誌を読むと左肩が痛い状態が長く続いているが、この痛みは今でも年に1回ほど起きる。上腕二頭筋の長頭が肩関節に入っている部分の炎症なのだが、腱がずれている場合が多い。中央道の韮崎IC近くにある「藤原整骨院」しか治せない症状なので、独特の痛みと痺れを感じたら、すぐさま高速バスで韮崎に飛んだものだ。

よって途中からナロウベンチを多用しているのだが、この種目は三角筋前部が引っ張られないので、肩の痛みを感じることなく三頭筋と大胸筋を鍛えることができた。最終的には95キロでセットを組んでいる。当時はナロウラックのベンチ台しかなく、ナロウベンチの手幅はせいぜい15センチ程度で、ほとんどクローズグリップベンチプレスだった。

デッドリフトはあまり真面目に行なっていない。もちろん記入していない日でも行なってはいるが、MAXの70%ぐらいの重量で流す程度の内容。DLは筋力以外にもメンタル面の充実が不可欠な種目(だと思っている)なので、気持ちが乗らないときにヘビーリフトしようとしても、失敗して落胆するだけだ。このあたりの対応の仕方は重量挙の選手らの取り組みを見ていて会得したと言える。

ハイスナッチは85キロまでで打ち止めだったが、失敗の延長で90キロを低い位置で取れたこともあったが、ロースナッチはまた別のテクニックが必須で、自分が挑むべき方向ではないと思い、やることはなかった。ハイクリーンが好調で110キロでセットを組むぐらいまで伸びたが、これはフォームがこなれてきたことと、スクワットでの身体の使い方がハイクリーンに活きてきた証だと感じた。

これで大学4年間のトレーニング日誌回顧は終わり。以降は社会人になってからのトレーニング日誌を回顧したいと思います。

※スクワット185キロ、ベンチプレス130キロ、デッドリフト220キロが大学時代の最高記録でした。すべてノーギヤです。


ボディビルランキング

月日SQBPDLMPその他種目等
4/25 130   
4/26160×2×3    
4/24160×2×4    
4/30    75ハイスナッチ
5/2 130   
5/3170×2    
5/7175    
5/11180(S着用)125210 春関東学生3位全日本へ
5/12 110×7   
5/14160×2×4 180×3×3(s)  
5/17  190×3×3(s)  
5/20160×3×5   100×3ハイクリーン
5/22 130   
5/24180   80スナッチ
5/26 130   
6/1190(S着用)120215 全日本学生+82.5kg級4位
6/5 120×2×5   
6/9 120×3×2   
6/10    70×3×10ハイスナッチ
6/17160×2×8(Lbar)   80ハイスナッチ
6/23 120×2×5180×3×2  
7/21 120×3×5   
7/26    80×2×4ハイスナッチ
8/16 120×3×4   
8/28    100×2×3ハイクリーン
8/30    80×3×5ハイスナッチ
9/4    90ロースナッチ
9/6  200(素手)  
9/13  200×3  
9/15 120×3×3   
9/20  210  
9/27170×2×3 210×3  
10/2    85ハイスナッチ
10/4180×2 220×1  
10/19192.5(S着用)125222.5 秋関東学生優勝
10/23180×3   200×3×2(1/4SQ)
10/27 120×5   
11/13180×2×3    
11/14    85×5×5ナロウベンチ
11/15    100×3×3ハイクリーン
11/22185    
11/29180×1×4 200×3、200×2×2  
12/1    90×5×4ナロウベンチ
12/2180×2×5   210×3×2(1/4SQ)
12/12    90×3×8ナロウベンチ
12/15 100×8×3   
12/22 100×10×2   
12/23    100×2×6ハイクリーン
12/25170×4   100×2×8ハイクリーン
1/8 100×8×5   
1/12 105×8×5   
1/13160×5×5    
1/16 105×10×2   
1/17180×5×2    
2/2    95×4×4ナロウベンチ
2/6    90×6×6ナロウベンチ
2/9 100×8×6   
2/12    110×2×4ハイクリーン
2/16 110×7,4,6,5,4   
2/17   80×2×3 
2/20 110×8   
2/23 110×8×2   
2/27 115×7,6,5,4,3   
2/28   75×3×8 
3/12   80×2×4 
3/23 115×8×2   
3/27 120×7,5,3   


ボディビルランキング

他大学の同級生

新人戦で舞台に立った面々とは、その後の大会で会う度に「よお」ぐらいの挨拶はかわすようにはなった。ただ、練習場にお邪魔して一緒にトレーニングさせてもらったのは東京大学のB&W部のみで、鹿児島出身の長谷場、舌をペロペロしながらヘビースクワットをこなす天貝とはよく話した。長谷場とは部の運営について飯田橋の喫茶店で熱く語り合ったが、今思えば大人目線でこちらに付き合ってくれたのではないかと思う。今は鹿児島で予備校を経営しているのだが、行きつくまでには苦難の道があったようだ。彼は1年後輩の杉山(法政大学)の後塵を拝して全日本学生は2位であったが、独特のポージングは観客や審査員までも魅了した。当時の社会人ビルダーのバルクには及ばないが、これぞ学生ボディビルと言えるフィジークだった。フリーポーズの曲はムソルグスキーのなんとかという曲で、クラシックをポージングの曲に選ぶセンスの良さもあった。

天貝は理系の学部所属で、学究肌の男だった。無口でシャイなためか、試合会場で会ってもニヤニヤしながらボソボソと話す程度だったが、とても心優しい男だった。練習の秘訣について尋ねたが、地道にコツコツがモットーの彼には秘訣など無かった。その彼が急逝したのを、確か20代の時に知った。詳しくは書かないが、人としても友人としても得難い存在を失ったショックは大きかった。

パワーリフターとして学生時代を終えた自分だが、2年生まではボディビルの大会をメインにしていたせいか、ビルダーの友人の方が多かった。同じ階級に筑波大学の後藤選手が名城大学開催の全日本学生で優勝し、つくば市に帰る前に自分の実家に立ち寄ってくれたのだ。少々を無理をさせてしまったようで、筑波大学ボディビル部の納会に間に合ったのかどうか・・・。30年以上経過した今も謎だ。ただ、卒業後の付き合いは全くなく、おそらく彼は社会人になってからはバーベルからは離れたと思う。秋の大会時に自分の所へ来て「なんだ4年の秋にも出てるんだあ~」と冷やかしていった彼の身体はずいぶん細くなっていたから。

一番付き合いの度合いが高かったのが明治大学のボディビル部。同期の丹野は新人戦で同じ舞台に立った。フィットネス業界に就職したが、数年して神奈川県警に入ったと聞いた。今、どの署にいるんだろう。宇山は小柄ながらポージングの上手さで上位に立っていた。お調子者の彼だったが、陰では血のにじむ努力をしていたであろう。彼の卒業後は全く分からない。

思いつくままに書いてみたが、顔は覚えていても、名前が思い出せない人が多く、ここに掲載することは避けた。自分と少しでも関わりのあった人は随分多いのだと、今更ながら感じた。


ボディビルランキング

2年生になって・・・。

1年生をそれほど記録を残せないで2年生になったが、このまま地道にやって行けば良いや、ぐらいの気持ちでいたことは確か。ただ、素質抜群の新入生の存在で、なにやら日々のトレーニングにも拍車がかかった。

既にブログに書いたが、杉山理理君の入部はそこそこ刺激的だった。入部当初はそれほど太くはなかったが、肌が薄く、皮下脂肪が少ない体質なせいか、カールをやると前腕の血管が浮き出ているぐらいで、あのまま妙なバルクアップしなければ大会で良い線行けるだろうなと思った。自分も2年生になったばかりはボディビルの大会で一旗あげたいと思っていたので、尻に火が付いた感じだった。

杉山はスクワットがすごく強く、超ナロースタンスで1年生時に140キロを3,4発爆発的なスピードで立っていた。人づてに聞いた話では山登りが趣味なのか、高校時代のクラブ活動だったのか定かではないが、おそらくそれで培った足腰の強さがベースになって、あのスクワットだったのだろう。今思えば、体幹が強いタイプで、フォームにブレがないので、デッドリフトも背中をフラットに保ち、最終的には220キロぐらいまで記録を残したんではないか。関東パワーの時に220キロ引いたのを見た記憶がある。

もう一人、有望そうだったのは中山賢一君。彼は名古屋出身で一浪して入学してきたのだが、高校で僕の小学校時代の同級生と同じクラスだったことがわかり、世の中狭いものだなと実感。彼は新人戦で9位で、その後上級生になってから出場した関東学生、東日本、全日本でも安定した成績を残した。自分より下の代で法政と言えば杉山、須江の名前があげられるが、中山や須江の同期では堀之内、後藤などがいなければ、東大を数年ぶりに破っての団体優勝など達しえなかったはず。ボディビルも団体競技なんですね。

さて、自分のこと。新人戦で8位を得て「ボディビルはもういいや」みたいな気持ちになった。杉山が7位で、上をいかれたこともあったが、自分には芸術的な競技は合わないなとも感じていたことが大きい。そこでそれまで気になっていた重量挙部の門をたたくことを決意したのだった。それまで部の上級生とはトレーニングルームでそこそこ話はしていたので、入門はすんなり。ただ、やる種目はスクワットとデッドフトに限るという内容。しかしながら、あの道場の雰囲気はそれまでの味わったことの無い緊張感満載で、自分がどう振舞っていいのか迷ってしまった。

ボディビル部に居れば、記録的には一番強かったわけだが、それでは井の中の蛙に陥るばかり。自分より強い人がいる世界で自己研鑽に努めてこそ、バーベルの世界に入った意味がある。当時は重量挙部の計量級の選手と一緒にスクワットをするありさまだったが、56キロ級で190キロのスクワットをする沖縄出身の先輩がいたりして、度肝を抜かれまくりだった。


ボディビルランキング

トレーニング日誌を読み返す 2

前回書いた須江君の件だが、彼は3,4年時に全日本学生選手権を連破していたことが分った。偉業と言えば偉業だが、しかしながら入部してきた時にすでに3種目の重量は初心者のそれでは無かったのに、パワーの試合で勝ち負けの争いを見た記憶が無い。デッドリフトだけは自信があったようで、関東パワーの時に「先輩、今日は250引きますよ」などと豪語していたが、ビクともせず。パワーリフティングの難しさと奥深さを感じたことだろう。

さて、前回は1年生の9月から3月末までの記録の変遷表を載せてみた。見る度に低レベルな内容に恥ずかしくなるが、ボディビル大会を目指していたせいか、それほど気にならなかった。

さて、以下の表は前回の続きで、2年生の年度末から3年生時(1985年度)の主な記録変遷である。2年生時は10月末の新人戦に向けて84キロから70キロまで減量したため、記録の伸びはほぼ無い。減量の仕方を間違ったようで、元気のない日常が続いた。今思えばプロテインをもっと多目に摂取すべきであったと思う。当時の食事内容が日誌に書いてあるが、よくあれっぽっちの量で激しいトレーニングが出来たものだ。若さゆえ?

新人戦が終わり、東日本大会があったのだが、こっちはどうでもよくなったので、食事を大会前のに戻したが、それほど太るでもなく、拍子抜けしてしまった。その東日本大会はあのそうそうたる参加選手の中で予選を突破し、27位あたりでフィニッシュした記憶がある。優勝は確か神奈川大の岩間さんで、2位は東京大学の江口さんだった。あの3位は誰だったか忘れてしまったが、たぶん東京大学の酒井さんだったかも知れない。

それから半年後の5月にスクワット160キロを達成。大会前は130ぐらいでヒーヒー言っていたので、30キロ増となったわけだ。実は東日本大会後辺りから重量挙部の練習場で公式の20キロバーを使わせてもらうことができるようになり、ある程度しなりを使ったスクワットは非常に気分の良いモノで、日誌を見るとベンチプレスの日にもスクワットを行なったりしていることがわかる。「毎日スクワット」は重量挙部の平仲さんから勧められた手法だが、つぶれない程度に回数を抑え、余裕を残して毎日スクワットを行うというもの。高回数のスクワットは脚が張るだけで強くならない、と言われたのがきっかけで、その時以来5回以上のセットをすることがなくなった。

そのスクワットは3年の秋(10月15日)には170キロまで記録を伸ばした。意外なことに、瞬発力もやたら伸びていて、サージャントジャンプは75センチぐらい飛んでいた。脚もそこそこ速くなり、スクワットの取り組みで、遅い脚で瞬発力もそこそこの自分がここまでになれるものだと感心してしまった。

ベンチプレスの伸びも順調だった。調子が悪い時に回数を無理やりこなしてしまう傾向のあったトレーニングはやめて、その日にできるレベルのトレーニングを地道に行うだけだった。1回あがる重量を追うのではなく、できる回数をなんとかキープして多セット行うトレーニング内容が功を奏したのか、ベンチプレスは1年で20キロほどの上乗せとなった。122.5キロ。

不思議なのはデッドリフトだ。 デッド自体は5月12日には210キロを引いている。フォームはおそらく相撲スタイルのはずだが、特筆すべきは試合で引いているということ。スクワットをほぼ毎日行うことがデッドにも良い影響を与えていたと言えるが、 練習ではフォーム重視とは言え、それほどマックスに近い重量は触っていない。また「スナッチ式?」と備考欄に書いてあるように、デッドリフトはすべてスナッチスタイルで行なっていた。だが、10月2日に「DLスナッチ式開始」らしき記述が日誌にある。生まれてこの方デッドを一所懸命トレーニングした記憶が無く、最高記録は245キロほどに留まった。

面白いのはミリタリープレス(MP)である。肩のトレーニングは軽い重量でパンプアップさせるトレーニングが主流だったが、回数を行うと筋力向上に効果は無く、回数を減らしてセット数を多くこなす手法に染まっていった。低回数多セットが肩には良かったのか、3年生時には80キロを2回押せるようになっていた。もちろんスタンディングで、多くの場合はクリーンしてからのプレスであった。

さて、見よう見まねでやりだしたハイクリーンだが、どうせやるならと相当の時間をフォーム修得に費やした。今思えば相当力任せのハイクリーンであり、たまに失敗して、ロークリーンになってしまった。ハイクリーンは他の種目と違って3本できたらその10キロ上ができるという法則は全く通用しない種目で、100を3回5セットだと115ぐらいは行けそうだなと計算上はかんがえるのだが、その重量のバーベルの前に立つと足がすくんだものだ。重量の数字の威力の凄さを思い知ったのである。

結果、スクワット170、ベンチプレス122.5m、デッドリフト210、ミリタリープレス80キロ(2回)で上がりの3年生だった。

月日SQBPDLMP備考
3/4 105   
3/5140×3×3    
3/7   60×3×5 
3/8130×5×7    
3/12 100×4 65×2×3 
3/13140×3×6    
3/19 100×3×2   
4/11 105   
4/15 110   
4/22 110   
5/1150×1×5    
5/2140×2×5    
5/4 110   
5/6160112.5   
5/7   70×1×2 
5/12160110210 関東パワー
5/14   75 
5/18  160 スナッチ式?
5/20 100×6 65×3×7 
5/23 115 70×2×6 
5/24   77.5 
5/28   65バックプレス
5/31   70×3 
6/3 100×4×2   
6/4   60×4×6 
6/5140×3×10    
6/6   60×5×2 
6/10    チンニング16発
6/13 100×4×3   
6/15  160×3×2 スナッチ式?
6/17 100×5×3   
6/19150×3×2、2×2    
6/26  150×3×10 スナッチ式?
7/15 100×7   
7/16140×5×5    
7/20   60×5×10 
7/24140×5×7    
7/25 100×5×5   
8/1   60×5×10 
8/2140×8    
8/10   70×3×5夏合宿中
9/5150×3    
9/7  160×2×5 スナッチ式?
9/9 105×3×2、2×2   
9/17150×2×10    
9/21   75×1×2 
9/24 110×3   
9/30 105×3×5 75×2 
10/1150×3×3    
10/2 110×2×5   
10/5  160×3×580スナッチ式?
10/7 120  10
10/8165    
10/11150×3×6110×3×6   
10/15170    
10/16  170×3 スナッチ式?
10/20170110210 関東学生
10/24    DLスナッチ式開始
11/5  200  
11/7 122.5   
11/11 110×5、4、3   
11/14 100×10   
12/10   65×5×7 
12/14    100ハイクリーン
12/23 112.5×3×5   
12/26 100×6×4   
1/9   70×5 
1/10    90×5インクラインベンチ
1/16 102.5×5×5   
1/18   75×2×5 
1/20 102.5×5×6   
1/21   70×3×8 
1/27 110×4×3   
1/29   70×5×3 
1/31 110×4×4   
2/5    90×3×3ハイクリーン
2/6 110×4×6   
2/12    90×3×5ハイクリーン
2/18 115×3×5   
2/19   75×3×5 
2/24155×3×2    
2/26    100×2×5ハイクリーン
2/28 120×2×5   
3/1   80×290×3×8
3/8 122.5  115ハイクリーン
3/11 110×5×3、4×2   
3/17    100×3×5ハイクリーン
3/25 115×3   
3/31 107.5×5×3   


ボディビルランキング