歴代の全日本学生チャンピオン達

自分が入学した1983年の全日本学生選手権は4年生の松山登代志先輩が勝ち取った。入学以前には1979年に高西文利先輩(現在ソフトバンクホークス・ストレングスコーチ)が断トツで優勝。確か部分賞を総なめするかと思われたが、腹の部門賞だけは同学年の岡田宏一先輩が受賞。一矢報いたわけです。

この岡田先輩は法政大学ボディビル部の女子のトレーニングについて土台を作った方で、1970年代のまだまだ女性がバーベルを持つことが稀有な時代に、さまざまな文献をあたり、ジムなどに見学をされたりして知見を深め、女性に合致したトレーニングルーティーンを確立されました。悲しいことに昭和60年の11月に殉職されています。新潟県警機動隊所属だった先輩は火事の現場検証中に事故に遭われました。当時3年生だった自分は学園祭を部の警備責任者として迎えようとしておりましたが、その前日に告別式に部を代表して参列することになり、新潟県長岡市へ向かいました。この時目の当たりにした警察官の葬儀を見て、少なからず将来の仕事とした職業に警察官が浮かんだことを覚えています。

次に、自分の一学年上の本田昌裕先輩も4年生時にチャンピオンとなりました。バルク型ではなかった先輩ですが、極限まで絞り切った鋼のような筋肉はすさまじいの一言でした。1年上ということで、日常的にうるさく小言を言われる立場でしたが、一度も嫌いだと思ったことは無かったですね。一度だけ反抗したことがあり、明治大学との定期戦の後に、「拳立て!」と叫んだのだけれど、どうにも納得いかない自分は立ったままでいました。他の部員は「いい通りにしておけばいいじゃん」みたいな雰囲気だったのがムカついたというのが本当のところですが、常に上級生が正しいわけではありませんからね。まあでも、こちらの言い分を受け入れてくれたことで、絆が強くなったのかなとも思いました。同期の河野先輩(現在、実家熊本で住職)の存在も大きかったです。

自分の代はパワーではそこそこ良い成績を納めましたが、ボディビルではそれほど・・・。

1学年下に杉山理理という珍しい名前の部員がおりましたが、自分がボディを諦めてパワーに移行したのは彼に順位を1つ上をいかれたことがきっかけです。彼は1年生で新人戦を7位(だったと思います)入賞。要するに初めて出たボディの大会でポーズダウンをしたわけです。彼は確か3年生で全日本学生チャンピオンになりました。この時は東大の長谷場選手(現在、故郷鹿児島市で予備校経営)が2位だったかと記憶しています。

そして自分が4年時に入学して来たのが、今なお日本ボディビル会の一線で活躍する彼だったのです。たぶん皆さんお分かりですね。そうです、須江正尋です。

彼とは入部前にひと悶着があり、もしそれがなければ今の彼の姿はなかったのではないかと思えるのです。当初は体育会空手部に所属していた須江ですが、事件は彼と自分の友人で空手部主務の平沢が重量挙場に現れたことに端を発します。当時すでに重量挙の種目であるハイクリーンやハイスナッチを頻繁に行っていたため、たまたま自分がそこにいたのです。 

この話の続きは次回!


ボディビルランキング