本命のパーソナルトレーナージムは選考から落ちた。面接後に面接官からは「非常に柔軟な思考をされていらっしゃる」などとお褒めの言葉をいただいていたのだが、結果はNG。ここで落ち込む暇があったらすることがあると思いなおし、「選考に落ちる」ということの意味を深く考えてみた。
まず、単に選考に落ちただけで、トレーナーとしてやっていけないという烙印を押されたわけではないということ。この考え方は大事である。次に、自分は本当に心からクライントさんにトレーニング指導をして対価を戴くことに生き甲斐を感じられるのだろうかという疑問。自分自身のトレーニングを自分自身のために楽しんでやるというのが、真に自身が満足、生き甲斐を感じられるのではないかという結論に至った。
さらに、現状パーソナルトレーナージムという業態はベンチャー企業であり、これから成長(あるいは衰退)していく業界であり、そこに集う有資格者のトレーナー達の中に自分のように一旦社会からドロップアウトし、トレーナー業を第二の人生と位置付けている自分が果たして馴染めるのかという恐れがあると自覚もした。
おそらく、従事する仕事は何でもいいのだろう。自宅からそう遠くないところにある会社に通勤して、少しばかり労働時間は長いが、せいぜい19時過ぎには帰宅出来て、そこそこの月給を得て、空いた時間でバーベルに心血を注ぐ生活。おそらくこれが真に願っていた生活なのではないかという結論に至ったのである。
今思うのは、NSCA-CPT資格を取得したが故に、トレーナーとして働かなければならないという考えに縛られていたのではないかということであり、頑張って取得した資格に束縛されるという本末転倒な事態に陥っていたわけである。資格試験の勉強をしている時も、試験に合格して就職活動をしているときも、どことなく地に足がついていない気がしていた。これで果たして良いのだろうか?という気持ちに、目を向けないようにしていたのだ。
ここまで書いて感じるのは、人は自分自身の本音にさえ気が付いていないということだ。あまりに内向的になるのも考え物だが、本当のところ自分はどうしたいのか?についてじっくり考えるという当たり前のことを心がけると、もっと自由になれると思う。選考に落ちても、すがすがしい気持ちでいられる今、おそらく自由になったのだと考えるのである。