狂気の学園祭 その1

狂気、気が狂ったことを意味するわけだが、決して自分らが狂っていたわけではなく、気を狂わせるぐらいしないと対応できない経験だった。

我が法政大学の学園祭は当時(1983年)、11月の末の勤労感謝の日付近に、準備日として確か午後以降が休講、本番がその翌日から3日、後片付け日が1日の合計5日間が学園祭期間として設定され、休講措置が取られていた。(期間は不確か)

自身が学園祭の渦中にいたというのに、その内実を知ったのが母校に職員として勤務して学生課に配属になってからのことだった。自主法政祭は学生だけの力で運営されるもので、もちろん大学が学園祭のコンテンツにコミットすることは無く、大学側がやっていたことは、近隣住民からの騒音苦情対応や夕方から深夜時間帯の企画教室へのごみ用袋の配布、職員の立場から見れば、「自主」は看板であり、中身は大学当局と一体となって開催されていたと言える。

実は学園祭の前段で、1年生がやらなくてはならない仕事があった。学園祭のパンフレットに掲載する広告を取って来ることで、新規開拓はそれほど無かったが、何十年も広告を載せてもらっている会社や業者であっても、必ず広告費のことや、掲載してもこっちの売り上げに直結するわけでは無いし、などの愚痴を聞かされた。数軒廻って、セールスマンには絶対なるまいと誓った。自分にどんな職業が合うかの話はよく聞くが、自分としては合わない職業ややりたくない仕事をピックアップした方が効率が良いと感じている。

業務としては昨年と同じ値段を提示せず、少し多めに提示して様子見。その金額でOKが出れば良いが、出なければ昨年並みまで下げて再交渉しOKをもらう。新規開拓は記憶にないが、昨年掲載した会社を確実にものにする、できれば昨年より高い金額で、が効率が良いと感じた。新規開拓は上級生が新年度の初めぐらいにめぼしい会社に文書を送付するなどして営業活動でもしておかないと、学園祭の前段で新規開拓は無理だと思った。

さて、我がボディビル部は五武道会という親睦団体を組織していて、応援団のリーダー部とともに警備を担当することになっていた。学ランを着た連中が今は無き55年館の教職員食堂に結集。応援団リーダー長からの激励に始まり、3年生が警備の主体となるため、各部の責任者紹介と会は進み、否が応でも緊張感が増してきた。

準備日の警備に入った自分と2年の先輩でキャンパス内を巡回したが、屋台を作っていた学生らから「ご苦労様です」の挨拶には面喰ったが、先輩からの説明で警備担当がある種の絶大な権力を持つ存在であることを自覚したのである。

※最近の学園祭のパンフレット表紙である。自分が現役学生時代には見開きのページから、当時は理解できない内容の文章が連なっており、今となっては理解できる内容だが、本ブログの趣旨からは外れてしまうので、ここでは書かない。

法政大学 学園祭パンフレット 2010年

大会参戦と狂気の学園祭

1年生の頃はすでに30年以上も前であり、断片的に記憶が抜け落ちている。初のパワーリフティング大会への出場が1年生時だったか2年生時だったか定かではないが、ボディビルの新人戦は1年時に出場したことをはっきりと覚えている。特に何の準備も無く、肌も白いままで出場。日焼けサロンというものが新宿あたりに出始めた頃だったが、減量してもいないのに肌だけ黒くしてもなあ、という思いもあり、というか金が勿体なくてサロンは利用せず。2年生の新人戦に向けては本格的に減量し日焼けサロンも利用したが、新宿の、名前は忘れたが、小寺さんと云うサーファーっぽい方が経営されていた日焼けサロンを利用した。

当時の料金設定など記憶に無い。やたら腹が赤くなるので、タオルでプロテクトして焼くという原始的な焼き方(笑)いや、これはどんな優れたタンニングマシーンでも、一番高くなる部分が早く焼けるのは仕方のないこと。2回に1回はタオルを腹に載せて焼いたのだった。腹と言っても鳩尾周辺であり、赤くなると痒くて痒くて・・・。

さて、1年時の大会は無欲のなんとかで、順位も何も覚えていないし、誰が優勝したかなども全く記憶に無い。会場は小田急線の「大根」という名の駅に近い東海大学だったが、前夜は同期宅に宿泊させてもらったと記憶している。石川君ね。今もFacebookで繋がっています。

そんなこんなで秋のスケジュールをこなして、11月末に開催される自主法政祭に突入しました。これについては次回ブログで詳しく。狂気、ですからね・・・。

やっと部員として承認

合宿から帰ったのが8月の9日あたりだったと記憶しているが、当時、東武練馬駅近くに住んでいた自分は、部屋に入るなりぐったりと寝込んでしまい、3,4日何をするでもなく朦朧として過ごしていた。もちろん食事や洗濯はしていたが、なかなか帰省する気になれなかった。

解散時に、疲労が抜けたら各自体育館に来てトレーニングするようにと、上級生から通達があったが、帰京後3,4日とその後の帰省中の2週間余りは何もせずに過ごしたと記憶している。寝て、飯食って、寝ての生活はまずいと思い、近所のガラス工場でバイトでもしようかと高校の同級生を頼り、帰省中はアルバイトに精を出した。ただ、深夜のアルバイトだったため、夕飯を食べてから出勤するため、親の小言が煩かった。当時の労働基準法がどうだったか知らないが、18歳で深夜アルバイトは当然OKだったはず。

しかし、夏の、それも酷暑の名古屋の夏に、ガラス工場のアルバイトは過酷だった。かろうじて待機部屋は冷房が効いていたが、作業場はほぼ「灼熱」。後で知ったが、その会社は有名なガラス会社で、アデリアグラスという食器ブランドで知られていたのでした。

このアルバイトでいくらか稼いだだろうが、その額は記憶に無い。朝、仕事から帰ってきて部屋で寝ていることを、仕事から帰った父親にクドクド言われるのが嫌で、早く東京に戻りたかったというのが本音。」だが、働く期間を事前に申請していたので、途中で穴を開けるわけにはいかず、帰京前日までアルバイトに没頭していた。

当時、後期開始は9月16日だった。15日が敬老の日だったため、学年暦上の後期開始が15日でも、実際は16日が初日だった。

その日、体育館1階の会議室に全部員が集合し、1年生が部のバッジを4年生から授けられた。これで正式な部員となったわけだが、そうなるとそれまでは仮の部員だったわけで、夏合宿は正式部員への登竜門だったのだとその時になって気が付いた鈍感な18歳の俺だった。

さて、後期の合同練習が始まったが、思いの外扱う重量は減っていなかった。性格に似合わず、丁寧にバーベルを扱うことを信条としていたため、前期4か月でベンチプレスが80キロを3回ぐらいしかやれていなかったし、スクワットは腰を痛めるのが恐くて80キロ程度しか担いでいなかった。トレーニング時の重量は自分で決める習慣だったので、先輩から「もっと重いのやれよ」などと言われたことは無かったが、個人的に「90キロにして回数減らしてみたらどうか」などの指摘を受けつつ、次第に重い重量へ挑戦する気持ちが高まって行った1年生の秋だった。