社会人になってからのトレーニング

無事大学を卒業し、めでたく法政大学に職員として就職した。当初、消防か警察を考えていて、それならば実家のある愛知県に戻ろうと思っていた。警視庁と母校しか内定がなかったのだが、伯父(愛知県警OB、元予科練)の一言でやめた。その一言に父も母も一言も無かったのだが、いつも一緒にいる父母以上に僕の性格を見抜いた伯父の凄さを感じた。「お前は正義感が強過ぎる。そういう人間は警察には向かない」だった。この言葉からさまざま連想できるが、既に鬼籍に入った伯父に聞く術もない。正義感が強くて殉職し易い?正義感が強すぎてグレーゾーンを飲めない人間には厳しい世界?おそらく、俺のような性格では警察社会では潰されてしまうという意味だったのだろう。今考えても、警察行かずに良かったと思えるのだから、伯父に感謝しなくては。

細かな記録の変遷は次回以降に記すとするが、大学4年間で基礎的な身体が出来上がっていたようで、記録の伸びは顕著だった。これまで採用しなかったチーティングを利用したベンチプレスでは170キロまで押せるようにはなったが、今思うのはすべてが「怪我の元」のトレーニングだったと言える。やはりバウンドさせる(特にベンチプレスでは)やり方は、特に肩関節に著しい不可となる。疲労がまたっていれば胸筋断裂も起こしかねない。胸筋は意外と疲労が溜まりやすい部位で、定期的にセルフマッサージを行なったり、鍼治療院で胸筋がバーンと震えるぐらいのレベルの鍼を打ってもらったものだ。

スクワットはベルトだけで220(225だったか?)キロまで立つことができた。ただ、スーパースーツやニーバンテージの利用についてはそれほど真剣に取り組むことがなかったため、装着しても記録がそれほど稼げたわけではなく、やはりどこかジムに所属していればと後悔している。つまり、パワーの選手としてたった独りでトレーニングしていたのである。

デッドリフトはスナッチ式のフォームで随分練習を積んだ記憶があるが、200キロぐらいは引いただろうか?でも、試合で採用するのは相撲スタイルだったので、このフォームでヘビーウエイトを扱えるフォームを追求すべきだったと言える。試合では245キロまで引いたのだが、ピーキングで240を失敗して臨んだ試合での記録で、引いた後驚いたことを覚えている。

なんだか、後悔満載の内容になってしまったが、これからもし指導する、指導できる立場に立ったならば、自身の遠回りパワー人生を教訓に、極力無駄のないトレーニングを若い気人たちに示していきたいと考えている。

近年、ボディビル大会とは別の審査基準のフィジークコンテストが盛んだが、所謂「細マッチョ」ではない綺麗なプロポーションと端正な顔立ちの青年たちがステージを彩り、華やかになったものだなと感じる。自分の学生時代のボディビルコンテストはアングラ、サブカルチャー的な香りがプンプンしていて、非常にマニアックな世界だった。もちろん私的見解だが、そんな世界からもっと一般的に知られるようになてきたことは、身体を鍛えることが特別なことではないことが一般的になることに繋がっていくものと思えるのだ。

自分は今、両膝の半月板がダメになり、パワーリフターとして復活できる道はほぼ無くなってしまった。よってベンチプレッサーとしてゼロからスタートすることを今日決めたわけである。上半身だけデカくて下半身が一般人というのは妙な体型だが、今まで自分が持っていたどうでも良いプライドやこだわりはすべて捨てて、新たな道を切り開いていこうと思います。

なんだか、所信表明になってしまった・・・。


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トレーニング日誌を読み返す 3

無事4年生になり、正真正銘の幹部となったわけだが、すでにボディビルのためのトレーニングからは離れ、完全に扱う重量を増やすことに特化したトレーニングに邁進した。以前として後輩部員らと班を編成してベンチプレス、あるいはスクワットに取り組む毎日であったが、試合を想定した場合、20キロバーで練習したかったため、何かしらの工夫が必要となった。だが、当時のトレーニング日誌を読み返しても、ボディビル部の練習場でトレーニングしたのか重量挙道場でトレーニングしたのかが判然としない。

今更そんなことを思い出そうにも、すでに30年以上前のこと、日誌に書いてあっても、何のことを書いているのかわからないこともあるのだから、記憶にあるはずがない。ということで、1986年度の記録の変遷を見て行こう。

この年度は言うなれば「低調」の年度であった。数字的には大した伸びも無かった。ただ、試合では練習でやれた重量はこなせていたので、まあ及第点としたい。低調とは言えスクワットは最終的にベルトだけで190キロ行けそうなところまで伸び(180キロ5回2セットを1月17日に達成している)、ベンチプレスは低回数をやめて8回を狙うトレーニングに変更している。日誌を読むと左肩が痛い状態が長く続いているが、この痛みは今でも年に1回ほど起きる。上腕二頭筋の長頭が肩関節に入っている部分の炎症なのだが、腱がずれている場合が多い。中央道の韮崎IC近くにある「藤原整骨院」しか治せない症状なので、独特の痛みと痺れを感じたら、すぐさま高速バスで韮崎に飛んだものだ。

よって途中からナロウベンチを多用しているのだが、この種目は三角筋前部が引っ張られないので、肩の痛みを感じることなく三頭筋と大胸筋を鍛えることができた。最終的には95キロでセットを組んでいる。当時はナロウラックのベンチ台しかなく、ナロウベンチの手幅はせいぜい15センチ程度で、ほとんどクローズグリップベンチプレスだった。

デッドリフトはあまり真面目に行なっていない。もちろん記入していない日でも行なってはいるが、MAXの70%ぐらいの重量で流す程度の内容。DLは筋力以外にもメンタル面の充実が不可欠な種目(だと思っている)なので、気持ちが乗らないときにヘビーリフトしようとしても、失敗して落胆するだけだ。このあたりの対応の仕方は重量挙の選手らの取り組みを見ていて会得したと言える。

ハイスナッチは85キロまでで打ち止めだったが、失敗の延長で90キロを低い位置で取れたこともあったが、ロースナッチはまた別のテクニックが必須で、自分が挑むべき方向ではないと思い、やることはなかった。ハイクリーンが好調で110キロでセットを組むぐらいまで伸びたが、これはフォームがこなれてきたことと、スクワットでの身体の使い方がハイクリーンに活きてきた証だと感じた。

これで大学4年間のトレーニング日誌回顧は終わり。以降は社会人になってからのトレーニング日誌を回顧したいと思います。

※スクワット185キロ、ベンチプレス130キロ、デッドリフト220キロが大学時代の最高記録でした。すべてノーギヤです。


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月日SQBPDLMPその他種目等
4/25 130   
4/26160×2×3    
4/24160×2×4    
4/30    75ハイスナッチ
5/2 130   
5/3170×2    
5/7175    
5/11180(S着用)125210 春関東学生3位全日本へ
5/12 110×7   
5/14160×2×4 180×3×3(s)  
5/17  190×3×3(s)  
5/20160×3×5   100×3ハイクリーン
5/22 130   
5/24180   80スナッチ
5/26 130   
6/1190(S着用)120215 全日本学生+82.5kg級4位
6/5 120×2×5   
6/9 120×3×2   
6/10    70×3×10ハイスナッチ
6/17160×2×8(Lbar)   80ハイスナッチ
6/23 120×2×5180×3×2  
7/21 120×3×5   
7/26    80×2×4ハイスナッチ
8/16 120×3×4   
8/28    100×2×3ハイクリーン
8/30    80×3×5ハイスナッチ
9/4    90ロースナッチ
9/6  200(素手)  
9/13  200×3  
9/15 120×3×3   
9/20  210  
9/27170×2×3 210×3  
10/2    85ハイスナッチ
10/4180×2 220×1  
10/19192.5(S着用)125222.5 秋関東学生優勝
10/23180×3   200×3×2(1/4SQ)
10/27 120×5   
11/13180×2×3    
11/14    85×5×5ナロウベンチ
11/15    100×3×3ハイクリーン
11/22185    
11/29180×1×4 200×3、200×2×2  
12/1    90×5×4ナロウベンチ
12/2180×2×5   210×3×2(1/4SQ)
12/12    90×3×8ナロウベンチ
12/15 100×8×3   
12/22 100×10×2   
12/23    100×2×6ハイクリーン
12/25170×4   100×2×8ハイクリーン
1/8 100×8×5   
1/12 105×8×5   
1/13160×5×5    
1/16 105×10×2   
1/17180×5×2    
2/2    95×4×4ナロウベンチ
2/6    90×6×6ナロウベンチ
2/9 100×8×6   
2/12    110×2×4ハイクリーン
2/16 110×7,4,6,5,4   
2/17   80×2×3 
2/20 110×8   
2/23 110×8×2   
2/27 115×7,6,5,4,3   
2/28   75×3×8 
3/12   80×2×4 
3/23 115×8×2   
3/27 120×7,5,3   


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他大学の同級生

新人戦で舞台に立った面々とは、その後の大会で会う度に「よお」ぐらいの挨拶はかわすようにはなった。ただ、練習場にお邪魔して一緒にトレーニングさせてもらったのは東京大学のB&W部のみで、鹿児島出身の長谷場、舌をペロペロしながらヘビースクワットをこなす天貝とはよく話した。長谷場とは部の運営について飯田橋の喫茶店で熱く語り合ったが、今思えば大人目線でこちらに付き合ってくれたのではないかと思う。今は鹿児島で予備校を経営しているのだが、行きつくまでには苦難の道があったようだ。彼は1年後輩の杉山(法政大学)の後塵を拝して全日本学生は2位であったが、独特のポージングは観客や審査員までも魅了した。当時の社会人ビルダーのバルクには及ばないが、これぞ学生ボディビルと言えるフィジークだった。フリーポーズの曲はムソルグスキーのなんとかという曲で、クラシックをポージングの曲に選ぶセンスの良さもあった。

天貝は理系の学部所属で、学究肌の男だった。無口でシャイなためか、試合会場で会ってもニヤニヤしながらボソボソと話す程度だったが、とても心優しい男だった。練習の秘訣について尋ねたが、地道にコツコツがモットーの彼には秘訣など無かった。その彼が急逝したのを、確か20代の時に知った。詳しくは書かないが、人としても友人としても得難い存在を失ったショックは大きかった。

パワーリフターとして学生時代を終えた自分だが、2年生まではボディビルの大会をメインにしていたせいか、ビルダーの友人の方が多かった。同じ階級に筑波大学の後藤選手が名城大学開催の全日本学生で優勝し、つくば市に帰る前に自分の実家に立ち寄ってくれたのだ。少々を無理をさせてしまったようで、筑波大学ボディビル部の納会に間に合ったのかどうか・・・。30年以上経過した今も謎だ。ただ、卒業後の付き合いは全くなく、おそらく彼は社会人になってからはバーベルからは離れたと思う。秋の大会時に自分の所へ来て「なんだ4年の秋にも出てるんだあ~」と冷やかしていった彼の身体はずいぶん細くなっていたから。

一番付き合いの度合いが高かったのが明治大学のボディビル部。同期の丹野は新人戦で同じ舞台に立った。フィットネス業界に就職したが、数年して神奈川県警に入ったと聞いた。今、どの署にいるんだろう。宇山は小柄ながらポージングの上手さで上位に立っていた。お調子者の彼だったが、陰では血のにじむ努力をしていたであろう。彼の卒業後は全く分からない。

思いつくままに書いてみたが、顔は覚えていても、名前が思い出せない人が多く、ここに掲載することは避けた。自分と少しでも関わりのあった人は随分多いのだと、今更ながら感じた。


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2年生になって・・・。

1年生をそれほど記録を残せないで2年生になったが、このまま地道にやって行けば良いや、ぐらいの気持ちでいたことは確か。ただ、素質抜群の新入生の存在で、なにやら日々のトレーニングにも拍車がかかった。

既にブログに書いたが、杉山理理君の入部はそこそこ刺激的だった。入部当初はそれほど太くはなかったが、肌が薄く、皮下脂肪が少ない体質なせいか、カールをやると前腕の血管が浮き出ているぐらいで、あのまま妙なバルクアップしなければ大会で良い線行けるだろうなと思った。自分も2年生になったばかりはボディビルの大会で一旗あげたいと思っていたので、尻に火が付いた感じだった。

杉山はスクワットがすごく強く、超ナロースタンスで1年生時に140キロを3,4発爆発的なスピードで立っていた。人づてに聞いた話では山登りが趣味なのか、高校時代のクラブ活動だったのか定かではないが、おそらくそれで培った足腰の強さがベースになって、あのスクワットだったのだろう。今思えば、体幹が強いタイプで、フォームにブレがないので、デッドリフトも背中をフラットに保ち、最終的には220キロぐらいまで記録を残したんではないか。関東パワーの時に220キロ引いたのを見た記憶がある。

もう一人、有望そうだったのは中山賢一君。彼は名古屋出身で一浪して入学してきたのだが、高校で僕の小学校時代の同級生と同じクラスだったことがわかり、世の中狭いものだなと実感。彼は新人戦で9位で、その後上級生になってから出場した関東学生、東日本、全日本でも安定した成績を残した。自分より下の代で法政と言えば杉山、須江の名前があげられるが、中山や須江の同期では堀之内、後藤などがいなければ、東大を数年ぶりに破っての団体優勝など達しえなかったはず。ボディビルも団体競技なんですね。

さて、自分のこと。新人戦で8位を得て「ボディビルはもういいや」みたいな気持ちになった。杉山が7位で、上をいかれたこともあったが、自分には芸術的な競技は合わないなとも感じていたことが大きい。そこでそれまで気になっていた重量挙部の門をたたくことを決意したのだった。それまで部の上級生とはトレーニングルームでそこそこ話はしていたので、入門はすんなり。ただ、やる種目はスクワットとデッドフトに限るという内容。しかしながら、あの道場の雰囲気はそれまでの味わったことの無い緊張感満載で、自分がどう振舞っていいのか迷ってしまった。

ボディビル部に居れば、記録的には一番強かったわけだが、それでは井の中の蛙に陥るばかり。自分より強い人がいる世界で自己研鑽に努めてこそ、バーベルの世界に入った意味がある。当時は重量挙部の計量級の選手と一緒にスクワットをするありさまだったが、56キロ級で190キロのスクワットをする沖縄出身の先輩がいたりして、度肝を抜かれまくりだった。


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トレーニング日誌を読み返す 2

前回書いた須江君の件だが、彼は3,4年時に全日本学生選手権を連破していたことが分った。偉業と言えば偉業だが、しかしながら入部してきた時にすでに3種目の重量は初心者のそれでは無かったのに、パワーの試合で勝ち負けの争いを見た記憶が無い。デッドリフトだけは自信があったようで、関東パワーの時に「先輩、今日は250引きますよ」などと豪語していたが、ビクともせず。パワーリフティングの難しさと奥深さを感じたことだろう。

さて、前回は1年生の9月から3月末までの記録の変遷表を載せてみた。見る度に低レベルな内容に恥ずかしくなるが、ボディビル大会を目指していたせいか、それほど気にならなかった。

さて、以下の表は前回の続きで、2年生の年度末から3年生時(1985年度)の主な記録変遷である。2年生時は10月末の新人戦に向けて84キロから70キロまで減量したため、記録の伸びはほぼ無い。減量の仕方を間違ったようで、元気のない日常が続いた。今思えばプロテインをもっと多目に摂取すべきであったと思う。当時の食事内容が日誌に書いてあるが、よくあれっぽっちの量で激しいトレーニングが出来たものだ。若さゆえ?

新人戦が終わり、東日本大会があったのだが、こっちはどうでもよくなったので、食事を大会前のに戻したが、それほど太るでもなく、拍子抜けしてしまった。その東日本大会はあのそうそうたる参加選手の中で予選を突破し、27位あたりでフィニッシュした記憶がある。優勝は確か神奈川大の岩間さんで、2位は東京大学の江口さんだった。あの3位は誰だったか忘れてしまったが、たぶん東京大学の酒井さんだったかも知れない。

それから半年後の5月にスクワット160キロを達成。大会前は130ぐらいでヒーヒー言っていたので、30キロ増となったわけだ。実は東日本大会後辺りから重量挙部の練習場で公式の20キロバーを使わせてもらうことができるようになり、ある程度しなりを使ったスクワットは非常に気分の良いモノで、日誌を見るとベンチプレスの日にもスクワットを行なったりしていることがわかる。「毎日スクワット」は重量挙部の平仲さんから勧められた手法だが、つぶれない程度に回数を抑え、余裕を残して毎日スクワットを行うというもの。高回数のスクワットは脚が張るだけで強くならない、と言われたのがきっかけで、その時以来5回以上のセットをすることがなくなった。

そのスクワットは3年の秋(10月15日)には170キロまで記録を伸ばした。意外なことに、瞬発力もやたら伸びていて、サージャントジャンプは75センチぐらい飛んでいた。脚もそこそこ速くなり、スクワットの取り組みで、遅い脚で瞬発力もそこそこの自分がここまでになれるものだと感心してしまった。

ベンチプレスの伸びも順調だった。調子が悪い時に回数を無理やりこなしてしまう傾向のあったトレーニングはやめて、その日にできるレベルのトレーニングを地道に行うだけだった。1回あがる重量を追うのではなく、できる回数をなんとかキープして多セット行うトレーニング内容が功を奏したのか、ベンチプレスは1年で20キロほどの上乗せとなった。122.5キロ。

不思議なのはデッドリフトだ。 デッド自体は5月12日には210キロを引いている。フォームはおそらく相撲スタイルのはずだが、特筆すべきは試合で引いているということ。スクワットをほぼ毎日行うことがデッドにも良い影響を与えていたと言えるが、 練習ではフォーム重視とは言え、それほどマックスに近い重量は触っていない。また「スナッチ式?」と備考欄に書いてあるように、デッドリフトはすべてスナッチスタイルで行なっていた。だが、10月2日に「DLスナッチ式開始」らしき記述が日誌にある。生まれてこの方デッドを一所懸命トレーニングした記憶が無く、最高記録は245キロほどに留まった。

面白いのはミリタリープレス(MP)である。肩のトレーニングは軽い重量でパンプアップさせるトレーニングが主流だったが、回数を行うと筋力向上に効果は無く、回数を減らしてセット数を多くこなす手法に染まっていった。低回数多セットが肩には良かったのか、3年生時には80キロを2回押せるようになっていた。もちろんスタンディングで、多くの場合はクリーンしてからのプレスであった。

さて、見よう見まねでやりだしたハイクリーンだが、どうせやるならと相当の時間をフォーム修得に費やした。今思えば相当力任せのハイクリーンであり、たまに失敗して、ロークリーンになってしまった。ハイクリーンは他の種目と違って3本できたらその10キロ上ができるという法則は全く通用しない種目で、100を3回5セットだと115ぐらいは行けそうだなと計算上はかんがえるのだが、その重量のバーベルの前に立つと足がすくんだものだ。重量の数字の威力の凄さを思い知ったのである。

結果、スクワット170、ベンチプレス122.5m、デッドリフト210、ミリタリープレス80キロ(2回)で上がりの3年生だった。

月日SQBPDLMP備考
3/4 105   
3/5140×3×3    
3/7   60×3×5 
3/8130×5×7    
3/12 100×4 65×2×3 
3/13140×3×6    
3/19 100×3×2   
4/11 105   
4/15 110   
4/22 110   
5/1150×1×5    
5/2140×2×5    
5/4 110   
5/6160112.5   
5/7   70×1×2 
5/12160110210 関東パワー
5/14   75 
5/18  160 スナッチ式?
5/20 100×6 65×3×7 
5/23 115 70×2×6 
5/24   77.5 
5/28   65バックプレス
5/31   70×3 
6/3 100×4×2   
6/4   60×4×6 
6/5140×3×10    
6/6   60×5×2 
6/10    チンニング16発
6/13 100×4×3   
6/15  160×3×2 スナッチ式?
6/17 100×5×3   
6/19150×3×2、2×2    
6/26  150×3×10 スナッチ式?
7/15 100×7   
7/16140×5×5    
7/20   60×5×10 
7/24140×5×7    
7/25 100×5×5   
8/1   60×5×10 
8/2140×8    
8/10   70×3×5夏合宿中
9/5150×3    
9/7  160×2×5 スナッチ式?
9/9 105×3×2、2×2   
9/17150×2×10    
9/21   75×1×2 
9/24 110×3   
9/30 105×3×5 75×2 
10/1150×3×3    
10/2 110×2×5   
10/5  160×3×580スナッチ式?
10/7 120  10
10/8165    
10/11150×3×6110×3×6   
10/15170    
10/16  170×3 スナッチ式?
10/20170110210 関東学生
10/24    DLスナッチ式開始
11/5  200  
11/7 122.5   
11/11 110×5、4、3   
11/14 100×10   
12/10   65×5×7 
12/14    100ハイクリーン
12/23 112.5×3×5   
12/26 100×6×4   
1/9   70×5 
1/10    90×5インクラインベンチ
1/16 102.5×5×5   
1/18   75×2×5 
1/20 102.5×5×6   
1/21   70×3×8 
1/27 110×4×3   
1/29   70×5×3 
1/31 110×4×4   
2/5    90×3×3ハイクリーン
2/6 110×4×6   
2/12    90×3×5ハイクリーン
2/18 115×3×5   
2/19   75×3×5 
2/24155×3×2    
2/26    100×2×5ハイクリーン
2/28 120×2×5   
3/1   80×290×3×8
3/8 122.5  115ハイクリーン
3/11 110×5×3、4×2   
3/17    100×3×5ハイクリーン
3/25 115×3   
3/31 107.5×5×3   


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須江君の入部に至る経緯

空手部の同級生・平沢と一緒に、道着姿の1年生の須江が現れた。重量挙の道場で、確かスナッチ式のデッドリフトのフォームチェックを行なっていた時だと記憶している。平沢が「こいつ高校の時パワーリフティングやっていたらしいぞ」と言うので、「トータルはどのぐらい?」と尋ねると、言った数字は忘れたが、即答したところを見ると、そこそこトレーニングには精通しているようだと感じた。友人がラグビー部員で、一緒にトレーニングをしていたという。ちなみにクラブ活動は「将棋部」だと言っていた。

既に空手部の部員として道着まで当てがわれた彼を引き抜くつもりなど毛頭ないが、彼とのトレーニング談議に水を差すかのように「こいつはもう空手をやっていくって決めたんだから、引き抜きみたいな真似しないでくれよな」と平沢。了見の狭い奴だなと思いながらも、こっちの考えをずばり言わせてもらった。空手をやっていくことを決めるのは須江本人であり、最初に入部したから続けなければならない理由も無い。本当に心からやりたいと思えることに邁進してこその学生生活ではないかと。

彼とは仲は良かったので、これだけのことを言い放っても、険悪なムードにはならなかったが、印象的だったのはその間、須江が正座をして俺たち4年生の激論を聞いていたことだ。

ロッカールームで着替えていた彼の広背筋は、すでに全日本学生クラスであり、もしバーベルを握るならば、トップになれる逸材だと確信したが、ここでも勧誘みたいな真似はせず、空手が本当にやりたいことならそれをしっかりやれば良い、ボディビル部に入部させようとはしないから。と平沢の存在を尊重して須江に話して別れた。

その週はまだガイダンス実施時期で、新入生歓迎会期間中でもあった。当時、法政大学の市ヶ谷キャンパス(富士見キャンパスとも言う)は狭い敷地内に出店を出し、そこで新入生の勧誘を行なっていた。自分たちボディビルはピロティ下の経済学部掲示板前が陣地だった。ガイダンスが始まると新入生らが一斉に姿を消す。皆、教室へ入ってしまうからだが、そういう時間帯、出店要員はリラックスできる。4年生の自分は、座り心地の悪い折りたたみ椅子に座っていたのだが、サイズの合わないジャケットを着た男子学生が近寄ってきた。須江だったのだ。

何の用件でと思ったと同時に、もしかして?という気持ちもあったが、「あの、ボディビル部でお世話になろうと思います」と須江が話し始めた。「でも、空手部の方はどうするんだ?」と聞くと「これから平沢さんに事情をお話してきます」と須江。正直、こっちは願ったり叶ったりであったが、平沢に申し訳ない気持ちも少なからずあった。

数日して平沢とキャンパスで会った。会うなり苦笑い顔で、「いやあ、やっぱりボディビルをやりたいんだそうだ。そうならこっちも無理に引き止められないしね」と。「俺は、本当にやりたいことをやれといっただけだ」と多少言い訳がちなことを言ったが、道場に須江が来た時の様子で、空手を本当にやりたいのではないという彼の気持ちが読み取れていたのかも知れないと、その時気が付いたわけです。

でも、もし須江が道場に現れなかったら、自分と会うことも無かったわけで、そう考えると縁とは不思議なものだと思う。その後、彼はほぼ順調にレベルアップし、1988年の全日本学生選手権で優勝した。彼は1986年入学だから、3年生の時にチャンピオンになったことになる?


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歴代の全日本学生チャンピオン達

自分が入学した1983年の全日本学生選手権は4年生の松山登代志先輩が勝ち取った。入学以前には1979年に高西文利先輩(現在ソフトバンクホークス・ストレングスコーチ)が断トツで優勝。確か部分賞を総なめするかと思われたが、腹の部門賞だけは同学年の岡田宏一先輩が受賞。一矢報いたわけです。

この岡田先輩は法政大学ボディビル部の女子のトレーニングについて土台を作った方で、1970年代のまだまだ女性がバーベルを持つことが稀有な時代に、さまざまな文献をあたり、ジムなどに見学をされたりして知見を深め、女性に合致したトレーニングルーティーンを確立されました。悲しいことに昭和60年の11月に殉職されています。新潟県警機動隊所属だった先輩は火事の現場検証中に事故に遭われました。当時3年生だった自分は学園祭を部の警備責任者として迎えようとしておりましたが、その前日に告別式に部を代表して参列することになり、新潟県長岡市へ向かいました。この時目の当たりにした警察官の葬儀を見て、少なからず将来の仕事とした職業に警察官が浮かんだことを覚えています。

次に、自分の一学年上の本田昌裕先輩も4年生時にチャンピオンとなりました。バルク型ではなかった先輩ですが、極限まで絞り切った鋼のような筋肉はすさまじいの一言でした。1年上ということで、日常的にうるさく小言を言われる立場でしたが、一度も嫌いだと思ったことは無かったですね。一度だけ反抗したことがあり、明治大学との定期戦の後に、「拳立て!」と叫んだのだけれど、どうにも納得いかない自分は立ったままでいました。他の部員は「いい通りにしておけばいいじゃん」みたいな雰囲気だったのがムカついたというのが本当のところですが、常に上級生が正しいわけではありませんからね。まあでも、こちらの言い分を受け入れてくれたことで、絆が強くなったのかなとも思いました。同期の河野先輩(現在、実家熊本で住職)の存在も大きかったです。

自分の代はパワーではそこそこ良い成績を納めましたが、ボディビルではそれほど・・・。

1学年下に杉山理理という珍しい名前の部員がおりましたが、自分がボディを諦めてパワーに移行したのは彼に順位を1つ上をいかれたことがきっかけです。彼は1年生で新人戦を7位(だったと思います)入賞。要するに初めて出たボディの大会でポーズダウンをしたわけです。彼は確か3年生で全日本学生チャンピオンになりました。この時は東大の長谷場選手(現在、故郷鹿児島市で予備校経営)が2位だったかと記憶しています。

そして自分が4年時に入学して来たのが、今なお日本ボディビル会の一線で活躍する彼だったのです。たぶん皆さんお分かりですね。そうです、須江正尋です。

彼とは入部前にひと悶着があり、もしそれがなければ今の彼の姿はなかったのではないかと思えるのです。当初は体育会空手部に所属していた須江ですが、事件は彼と自分の友人で空手部主務の平沢が重量挙場に現れたことに端を発します。当時すでに重量挙の種目であるハイクリーンやハイスナッチを頻繁に行っていたため、たまたま自分がそこにいたのです。 

この話の続きは次回!


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トレーニング日誌を読み返す

前回のブログからずいぶん経過してしまった。というのは、1,2年時のトレーニング日誌を読み返していたからであり、記録を更新したり、回数を多くできたりした日をエクセル表に落とし込んでいく作業をしていたからである。日誌は今の自分が書く文字とは思えないほど小さくて細く、もちろん細いボールペンを使ったからだろうが、虫眼鏡を使わないと読めない文字も多々ある。

1年時のMAX記録は前回書いたように スクワット130キロ、ベンチプレス90キロ、デッドリフト170キロであった。2年時、1984年度の記録の変遷をエクセル表にしてみたので、見て欲しい。記録的に目立った成果があった日のみ掲載している。掲載の無い日は地道なトレーニングの日々であった。※MPはミリタリープレス、数字の並びはキロ、回数、セット数である。

  SQBPDLMP備考
198310月10日11585180 法明定期戦
 11月10日130    
 11月16日 90   
19841月18日 70×10   
 1月30日110×5×3    
 4月1日 90   
 4月14日  185  
 4月17日 90   
 4月19日132.5   SQ100×10
 4月20日 92.5   
 4月23日135    
 5月4日 92.5   
 5月7日 90×2   
 5月8日 90×3   
 5月10日140×2    
 5月11日 95   
 5月14日 100   
 5月16日 100   
 5月20日13597.5185 関東パワー
 6月5日130×5    
 8月30日 90×3   
 9月3日 100   
 9月14日 95   
 9月29日110×5×5    
 10月28日    新人戦
 12月11日 90×3   
19851月11日   62.5 
 1月12日   65 
 1月14日 102.5   
 1月28日 90×4×2   
 2月6日130×3×3    
 2月16日135×3    
 2月25日 90×6   
 2月26日150    
 2月27日   70 
 3月1日140×3×3    

2年生の5月14日にやっとベンチプレス100キロを達成したのだが、トレーニング開始から1年ちょっとかかっている。まあ、大した才能も素質も無いトレーニーだったと今さらながら思うのだが、当時は記録より効かせることをメインに考えていたので、素質云々は全く気にしていなかった。また、右肩の具合が思わしくなく、バーベルの安定感に欠けることが多く、持っている本来の筋力を出し切れていなかったように思う。

2月26日にスクワットを150キロ達成。この記録までに2年近くかかっている。フォームがなかなか安定せず、レグプレスで扱う重量からすれば脚の筋力はあるものの、スクワット姿勢になるとそれを活かしきれない症状があったと思う。この時はまだハイバースクワットであり、パワーリフティング大会のためにローバースクワットに取り掛かるのはずいぶん後になってからだ。

デッドリフトは185キロを5月20日に達成。関東学生大会での記録であり、公式記録となる。10キロのバーより20キロのバーの方が引きやすが、ファーストプルでバーがしなるので、そこで耐えないと両側のプレートが上がってこない感覚を覚えた。この時はまだフックグリップは採用せず、通常のオルタネイト・グリップだった。ただ、デッドリフトを週に1回でも練習に充てていれば、もう少し記録を伸ばすことができたと感じている。フォームもまだヨーロピアンスタイルで、妙なこだわりを持っていた。つまり、このフォームで200キロ引くまでは相撲スタイルのデッドはやらない、とか。今思うと、完全に間違ってます。はい。

ひとつ特筆したいのはミリタリープレスである。日誌を見るとバックプレスを行う日が1年時より多くなり、チーティングを採用することでオーバーロードの負荷がかかったことが功を奏したのか、2月27日に70キロをプレスしている。当時はこの重量でショルダープレスをする部員は自分ぐらいのもので、ひとりほくそ笑んでいた。ただ、合同練習期間中ではないので、誰も70をプレスするところを見ていなかったので、後から疑われたことについては腹立たしく思えた。

トレーニングのやり方を見てみると、ピラミッド法を当初採用していたのだが、徐々にセット法になり、多セットをこなすトレーニングに移行してきている。これは重量挙部の先輩の助言が大いに影響している。自力で挙げられる重量を潰れるまでやらないこと。潰れると筋力が低下する、という教えをしっかり守ってトレーニングしていくことになったが、当のボディビル部の先輩からは大した助言もなく、放置状態であった。


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トレーニング日誌

手元にあるトレーニング日誌は1983年9月27日から始まっている。当初はウオームアップを含めた総セット数が書いてあるだけだ。反省文の中に徐々に重量と回数が書かれるようになり、10月末になって現在も続いている書き方になっている。例えば100キロを10回の場合10/100のように記入し、補助を受けた場合は10の後に(2)と書いたりしていた。では、それまで重量と回数を書かなかったのかと今考えると、それほど重量に対する意識が高くなかったと言える。あるいは重い重量を扱う勇気が無かったのかも知れない。また、ベンチプレスのトレーニング後に右肩の肩峰部分にしつこい疲労が残り、そこを解すのが大変な作業で、電車に乗って帰宅する間もずっとマッサージしていたのだ。幼い頃からボールを投げる動作で肩に引っ掛かりを多少感じていたので、そのせいだろうとは感じていた。在学中に有名な整形外科にもかかったが、当時の日本の整形外科は肩関節に対する見識がおそらく低かったのだろう、納得できる治療を受けることはできなかった。もちろん外傷による肩関節の治療は一般的だったが、自分の肩の場合は一流の整形外科医でも対処に困ったのだろう。

さて、日誌に重量と回数を記入する内に、重量に対する意識が芽生えたらしく、11月10日にスクワット130キロ、11月16日ベンチプレス90キロと目に見える結果が出始めた。ただ、これは狂気の学園祭の直前であり、祭りの後はグッと記録は落ち込むであろうと覚めた気持ちでいた。11月26日の日誌に試合形式の結果が書いてあるのだが、おそらく部内の記録会だろう。そこにはスクワット第1試技120成功、その後130を失敗。ベンチプレスは第1試技80成功。だがそれ以降85キロは失敗。デッドリフトも第1試技の170で打ち止めで、その後の試技は失敗。学園祭なのでこのぐらいの落ち込みは仕方が無いし、想定内。冬にしっかりトレーニングしてヘビーウエイトで悠々とトレーニングできるようになりたいと願ったものだった。

当時からトレーニングメニューを作成するのが好きで、トレーニングに行き詰ると何かしら書きたくなるのだが、その通りにやった試しがない。というより種目数やセット数が多過ぎたのだ。当時はアーノルド・シュワルツェネッガーが人気で、彼のトレーニングを真似していたこともあって膨大な量のトレーニングをこなせば、あんな体になるものと思い込んでいた。彼以前にも日本の須藤幸三氏がミスターユニバースで優勝し、末光健一氏も同じくミスターユニバースで優勝しており、彼らのトレーニングが想像を絶するボリュームであったことも、量をこなすことこそデカい筋肉獲得への道だと信じて疑わなかったのだった。

1年生として過ごしたボディビル部の1年で、スクワット130キロ、ベンチプレス90キロ、デッドリフト170キロまで到達したわけだが、ボディビルのためのトレーニングという考えを完全に捨てられたのは2年生の新人戦後になった。


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春合宿

春合宿の費用捻出は年末の高島屋アルバイトと単発で入る露店のアルバイトで賄った。4泊5日か3泊4日の春合宿は、夏合宿ほどのきつさは無かったが、これが終わると2年生になり、後輩を迎えることになる現実を前に、一味違う合宿であり、3年生の新幹部もそのことをことあるごとに強調してきた。普段フレンドリーな先輩(3年の先輩らは優しい感じの方が多かった)であっても、さすがに部の役職を背負ってモノを言う時は違ってました。まあ、学生の運動部ってある意味自己演出しないとやっていけない部分もあって、1年生らもそれを分かって1年生然として聞いていたように思う。お互い自己演出しあっていたということか(笑)

春合宿のメニューは夏合宿とほぼ共通。だが、3学年しかいないので、こじんまりとした合宿にならざるを得ない。年度当初は注意を受けるばかりで、あまり話す機会の無かった2年生とは春合宿こそ会話の場であり、ここで2年生の本音が聞けて楽になったと言える。合宿と云う非日常空間だからこそ言えることもあるわけで、そういう意味では同学年の仲間らとも連帯感が生まれてきたように思えた。

春合宿の時点で、引退まで部員として在籍した男子4名と女子4名がいたが、4名の女子部員の方が男子部員より質実剛健な連中が多く、ゆくゆくは女性上位の幹部になってしまうのかと思い、少々暗澹たる気分になった。


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