ボディビル部に入部

腫れて大学生になった僕は上京し、まずは入学式に臨んだ。当時の総長ぐらいは覚えているが、来賓が誰だったかだとか、その来賓の祝辞の内容がどうだったかは全く記憶にない。他の新入生と違ったのは、自分だけスーツでは無かったということ。両親はスーツを仕立てるつもりだったが、こうこう3年次にバーベルをやるつもりだったので、どうせ身体がでかくなるからと、それを拒んだと記憶している。結局、妙にカジュアルな、汎用性の全くない服装を切る羽目になり、あんな服を着るならスーツを仕立ててもらった方が良かったと後悔した。

当時、ボディビル部の出店は経済学部の掲示板前にあった。自身、経済学部へ入学したものだから、どういう連中が勧誘しているものかと出店を見に行ったのだが、どう見てもボディビルという体形の先輩方はおらず、「着痩せするのだろうね」と心を落ち着かせた。こちらは入部するつもりでいたのだが、OBの誰それを知っているか?この先輩だよ。などと説明をされるだけで、一向に入部させてくれない。いい加減しびれを切らした18歳の自分は「あの、入部させてくれないのですか」と生意気にも尋ねたのだが、それに驚いた先輩方は「じゃあ体育館のトレーニングルームをまず見てもらおう」と焦った様子で、群馬県渋川市出身の先輩が案内をしてくれたのだった。

トレーニングルームは当時としては相当器具類が揃っていたと記憶しているが、バーが10キロでプレートが鉄製の代物。隣で練習していた重量挙部の使うバーベルから見れば、少々見劣りするなと素人ながら感じたものだ。

無事入部して最初の練習日。新入生は15人ほどだったと記憶している。現役生は同い年だが、中には2浪した奴もいたりして、現役で入学した3年生と同じ年齢なんだなと、当たり前のことを考えていた。年齢が上でも下でも、いつ入部したかによってヒエラルキーが決まるわけで、年上の人間を後輩として、また、年下の人間を先輩として振る舞うのであるから、大学と言うところは面白いところだなと感じたものだ。

ちなみに大学は法政大学で、自分が入学した年に法政大学ボディビル部2人目の全日本学生チャンピオンが誕生したのでした。

バーベルとの出会い

記憶にある限り、バーベルを握ったのは高校時代の2年生、水泳部の冬の陸上トレーニングの一環として、ウエイトトレーニングを行った時だ。顧問の先生が愛知県内で相当有名な水泳コーチだったこともあってか、1980年代の初めごろに既にウエイトトレーニングを導入していたのだ。と言っても、ベンチプレス台やマシーンがあるわけではなく、背中を中心に懸垂(2回ぐらいしかできなかったので、1分ぶら下がりを数セットやっていた)、ベントロウを行い、うつ伏せでパッドをプルするマシーンで仕上げる、という具合だった。使っていたマシ―ンは画像のような立派で高価なものではなかったが、強く引くとそれだけ高負荷がかかる方式の優れもので、適当に流していると「ほらあ~ちゃんと引かんかい!」と先生にどやされたものだ。

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正直、適当にやっていたトレーニングだが、1か月ほど経過すると、徐々に筋肉が大きくなっていることを感じた。クラスメイトも肩幅が前より広くなったようだと言ってくれた。そうなると嬉しいもので、それまで1日おきだったウエイトトレーニングを毎日行うようにしたのだが、2週間ぐらい続けた時点で疲れてしまい。1週間ぐらいまったくバーベルを握らなかった。顧問は「少し休め」とだけ言って、細かな話はしなかったが、書店で見つけたボディビルの本に、毎日トレーニングすることは筋肉の発達には良くなくて、トレーニング後はしっかり栄養を摂って休むことがもっと大事だと書いてあった。その本は窪田登先生が書かれた「新ボディ・ビル入門(ベースボールマガジン社)1972年」だった。

3年生になって水泳部を引退後、受験勉強体制に入ったわけだが、さまざま工夫して部屋の中でトレーニングを行っていた。リュックサックに古新聞を詰め込み、それをダンベルに見立て、床に寝てプルオーバーを行うぐらいが関の山だったが、水泳部での活動で得た胸郭がこの運動でどんどん大きくなっていった。ただ、古新聞を詰め込むだけでは重さに限界があるため、高回数で行うしかなかった。

さて、そういう中で無事大学受験をパス。上京することになった1983年の春。