地獄の夏合宿 その1

1983年夏の合宿はOBの先輩の実家、夫婦岩で有名な三重県の二見で行われた。事前に3日連続の準備合宿があったが、ウエイトトレーニングを行なって1時間足らずの休憩をはさんですぐさま屋外での「走る」トレーニングに移った。後で感じたのだが、合宿は昼飯と昼寝の時間があったので、この準備合宿の方が辛かったということ。終了後はプロテインを飲んですぐに帰宅して寝るしかなかった。

準備合宿の最終日は器具類の積込作業が待っていた。大学の体育館地下1階に所狭しと並べられた器具類を全部トラック積む作業。自動車部所有のトラックがすでに体育館に横付けされており、上級生の指示のもと積み込んで行くのだが、その積み方で部員同士で揉めたりしていて遅々として進まず。1年生の多くは「早く指示出してくれよ」という顔をしていた。毎年やっていることなのだから、写真を撮っておけば良いようなものだが・・・。

当時、部員は40人前後。観光バス1台に全員乗れたから、そのぐらいの人数だっただろう。バスは市ヶ谷にある法政大学体育館を出て、記憶の限りでは中央道で一路名古屋方面に向かった。途中、名神高速から自分の母校が見えたのだが、誰にも言わずに黙っていた。それよりも帰りはここらで下ろしてくれるとありがたいなと思っていた。

休憩をはさみながら、特に渋滞に巻き込まれることもなく二見に到着。合宿初日は明日であり、先輩から数々の注意事項が通達された。特にOBの経営する宿で、OBが通常より大人数来られるとのことで、上級生の方がピリピリしていた。

さて、合宿2日目の朝が来た。実質上初日だ。この日の夜、ある事件が発生する。今の時代からすれば前代未聞なのだが、この事件で「この合宿は乗り越えられる!」と妙な自信を得たのだった。

さて、その事件とは?

1年生は奴隷?

1年生は奴隷、4年生は王様・・・よく覚えていないが、2年生の先輩からそんなことを吹き込まれた入部当初だったが、後に他団体の同級生と付き合うようになって、我がボディビル部は意外と民主的な集まりだなと思ったものだ。

入部時2年生はたった3人。同級生は、そうだな・・・最終的に自分含めて4人と女子4人が4年生になっていたが、当初は15人ぐらい部員がいたはず。1回参加して消えた奴、学生服を着たくなくて辞めた奴など。先輩からは「夏合宿後に固まるよ」と聞いてはいたが、果たしてボディビルで夏合宿?という疑問が湧いたのだった。

当時の合同トレーニング、つまり部全体で行うトレーニングは、月・火・木・金がバーベルを使ったトレーニングで土曜日は皇居1週を含めた陸上でのトレーニングだった。ボディビルダーとは言え、走れないようではアスリート足りえないなどという考えがあったのか分からないが、受験勉強でなまった身体には皇居1週は随分堪えた。まあでも、前期が終わるころには馴化したらしく、そこそこ楽に走れるようにはなった。そのおかげか、体育の授業では12分間走を3,000メートル近くまで走れる力が付いた。

本来は短距離ダッシュが筋肉をつけるために有効なのだが、マラソン選手やトラックの長距離選手ほど走るわけではないので、皇居1週は無駄ではなかったのだ。ゆっくり走ることで、走ることに使う筋肉や、その筋肉の無駄のない動きを得るには走るしかないわけで、バーベル運動で筋肉をつけても、それを走りに生かすには走らなければダメなのだと18歳にして悟った。今思えば我ながら気づきが早い(笑)

当時は前期と後期の締めの会があり、所謂飲み会が開催されていた。名だたるOB諸氏が会に参加されるということで、上級生からは相当口うるさく注意点を毎日聞かされた。ビールはラベルを上にして注ぐ、飲めなくてもグラスは必ず携行する、グラスは両手で持つ、などなど。当たり前と言えば当たり前だが、今の時代「面倒くさい」と敬遠されてしまうような内容だ。

思い出したが、OBに回会の案内を郵送することは2年生の指導の下、1年生が行なっていた。往復はがきにOBの住所以外を昔ながらのガリ版刷りみたいな道具で印刷していくのだが、インクが多すぎたりして印字した字が全く読めなかったりと、ずいぶんハガキを無駄にしたものだ。プリントゴッコが使えるようになったのは上級生になってからで、「今の1年は楽でいいな」と異口同音に話したものだった。

そんなこんなで前期が終了。でも、これで解放されたわけではなかった。上級生らが口々に「地獄の合宿」と言われる夏合宿が待ち構えていたのだった。そのための旅費づくりは、お中元の時期と言うこともあり、日本橋の高島屋さんに入っていた運送会社の助手を部員総出で行うことになっていた。自分は自分で何かアルバイトをやろうと考えていたが、体制に押し流されていったのだった。

そういうわけで世間では当時すでにポピュラーであった「五月病」などにかかることも無く、有意義な学生生活であったと言えるだろう。ただ、疲労のため2か月に1度ぐらいは高熱で寝込むことがあり、心配ではあった。

ボディビル部に入部

腫れて大学生になった僕は上京し、まずは入学式に臨んだ。当時の総長ぐらいは覚えているが、来賓が誰だったかだとか、その来賓の祝辞の内容がどうだったかは全く記憶にない。他の新入生と違ったのは、自分だけスーツでは無かったということ。両親はスーツを仕立てるつもりだったが、こうこう3年次にバーベルをやるつもりだったので、どうせ身体がでかくなるからと、それを拒んだと記憶している。結局、妙にカジュアルな、汎用性の全くない服装を切る羽目になり、あんな服を着るならスーツを仕立ててもらった方が良かったと後悔した。

当時、ボディビル部の出店は経済学部の掲示板前にあった。自身、経済学部へ入学したものだから、どういう連中が勧誘しているものかと出店を見に行ったのだが、どう見てもボディビルという体形の先輩方はおらず、「着痩せするのだろうね」と心を落ち着かせた。こちらは入部するつもりでいたのだが、OBの誰それを知っているか?この先輩だよ。などと説明をされるだけで、一向に入部させてくれない。いい加減しびれを切らした18歳の自分は「あの、入部させてくれないのですか」と生意気にも尋ねたのだが、それに驚いた先輩方は「じゃあ体育館のトレーニングルームをまず見てもらおう」と焦った様子で、群馬県渋川市出身の先輩が案内をしてくれたのだった。

トレーニングルームは当時としては相当器具類が揃っていたと記憶しているが、バーが10キロでプレートが鉄製の代物。隣で練習していた重量挙部の使うバーベルから見れば、少々見劣りするなと素人ながら感じたものだ。

無事入部して最初の練習日。新入生は15人ほどだったと記憶している。現役生は同い年だが、中には2浪した奴もいたりして、現役で入学した3年生と同じ年齢なんだなと、当たり前のことを考えていた。年齢が上でも下でも、いつ入部したかによってヒエラルキーが決まるわけで、年上の人間を後輩として、また、年下の人間を先輩として振る舞うのであるから、大学と言うところは面白いところだなと感じたものだ。

ちなみに大学は法政大学で、自分が入学した年に法政大学ボディビル部2人目の全日本学生チャンピオンが誕生したのでした。

バーベルとの出会い

記憶にある限り、バーベルを握ったのは高校時代の2年生、水泳部の冬の陸上トレーニングの一環として、ウエイトトレーニングを行った時だ。顧問の先生が愛知県内で相当有名な水泳コーチだったこともあってか、1980年代の初めごろに既にウエイトトレーニングを導入していたのだ。と言っても、ベンチプレス台やマシーンがあるわけではなく、背中を中心に懸垂(2回ぐらいしかできなかったので、1分ぶら下がりを数セットやっていた)、ベントロウを行い、うつ伏せでパッドをプルするマシーンで仕上げる、という具合だった。使っていたマシ―ンは画像のような立派で高価なものではなかったが、強く引くとそれだけ高負荷がかかる方式の優れもので、適当に流していると「ほらあ~ちゃんと引かんかい!」と先生にどやされたものだ。

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正直、適当にやっていたトレーニングだが、1か月ほど経過すると、徐々に筋肉が大きくなっていることを感じた。クラスメイトも肩幅が前より広くなったようだと言ってくれた。そうなると嬉しいもので、それまで1日おきだったウエイトトレーニングを毎日行うようにしたのだが、2週間ぐらい続けた時点で疲れてしまい。1週間ぐらいまったくバーベルを握らなかった。顧問は「少し休め」とだけ言って、細かな話はしなかったが、書店で見つけたボディビルの本に、毎日トレーニングすることは筋肉の発達には良くなくて、トレーニング後はしっかり栄養を摂って休むことがもっと大事だと書いてあった。その本は窪田登先生が書かれた「新ボディ・ビル入門(ベースボールマガジン社)1972年」だった。

3年生になって水泳部を引退後、受験勉強体制に入ったわけだが、さまざま工夫して部屋の中でトレーニングを行っていた。リュックサックに古新聞を詰め込み、それをダンベルに見立て、床に寝てプルオーバーを行うぐらいが関の山だったが、水泳部での活動で得た胸郭がこの運動でどんどん大きくなっていった。ただ、古新聞を詰め込むだけでは重さに限界があるため、高回数で行うしかなかった。

さて、そういう中で無事大学受験をパス。上京することになった1983年の春。