やっと部員として承認

合宿から帰ったのが8月の9日あたりだったと記憶しているが、当時、東武練馬駅近くに住んでいた自分は、部屋に入るなりぐったりと寝込んでしまい、3,4日何をするでもなく朦朧として過ごしていた。もちろん食事や洗濯はしていたが、なかなか帰省する気になれなかった。

解散時に、疲労が抜けたら各自体育館に来てトレーニングするようにと、上級生から通達があったが、帰京後3,4日とその後の帰省中の2週間余りは何もせずに過ごしたと記憶している。寝て、飯食って、寝ての生活はまずいと思い、近所のガラス工場でバイトでもしようかと高校の同級生を頼り、帰省中はアルバイトに精を出した。ただ、深夜のアルバイトだったため、夕飯を食べてから出勤するため、親の小言が煩かった。当時の労働基準法がどうだったか知らないが、18歳で深夜アルバイトは当然OKだったはず。

しかし、夏の、それも酷暑の名古屋の夏に、ガラス工場のアルバイトは過酷だった。かろうじて待機部屋は冷房が効いていたが、作業場はほぼ「灼熱」。後で知ったが、その会社は有名なガラス会社で、アデリアグラスという食器ブランドで知られていたのでした。

このアルバイトでいくらか稼いだだろうが、その額は記憶に無い。朝、仕事から帰ってきて部屋で寝ていることを、仕事から帰った父親にクドクド言われるのが嫌で、早く東京に戻りたかったというのが本音。」だが、働く期間を事前に申請していたので、途中で穴を開けるわけにはいかず、帰京前日までアルバイトに没頭していた。

当時、後期開始は9月16日だった。15日が敬老の日だったため、学年暦上の後期開始が15日でも、実際は16日が初日だった。

その日、体育館1階の会議室に全部員が集合し、1年生が部のバッジを4年生から授けられた。これで正式な部員となったわけだが、そうなるとそれまでは仮の部員だったわけで、夏合宿は正式部員への登竜門だったのだとその時になって気が付いた鈍感な18歳の俺だった。

さて、後期の合同練習が始まったが、思いの外扱う重量は減っていなかった。性格に似合わず、丁寧にバーベルを扱うことを信条としていたため、前期4か月でベンチプレスが80キロを3回ぐらいしかやれていなかったし、スクワットは腰を痛めるのが恐くて80キロ程度しか担いでいなかった。トレーニング時の重量は自分で決める習慣だったので、先輩から「もっと重いのやれよ」などと言われたことは無かったが、個人的に「90キロにして回数減らしてみたらどうか」などの指摘を受けつつ、次第に重い重量へ挑戦する気持ちが高まって行った1年生の秋だった。

地獄の夏合宿 その6

読まれている方々は期待されているかと思いますが、第2の事件については目にしていないんです。後になって先輩から聞いた話で、1年は皆で「えええ」というリアクション。初日にあったように、主将M山先輩のほとばしる叱責があったのでしょう。

事の詳細を書きますと、当該部員は2年生の先輩でした。同じ学年の先輩の話では、玄関からではなく、部屋の窓から、あるいはトイレの窓から逃げたと聞きました。1年生ながら不思議に感じたのは「どうして全日程をクリヤしておきながら、最終日、それも打ち上げが終わった後に脱走?」というもの。すでに30年以上経過した今言えるのは、部を辞めるということを言わないで部を去るためのひとつの手段なのではなかったかということ。決して、初日に脱走した奴の理由とは違っていたのだと思います。

その先輩が部員と一緒に観光バスで帰京したかどうかは全く記憶にありません。たぶん、その時は「脱走」の事実は公になっていなかったと思います。東京へ戻ってから知らされたのだと思います。

記憶が曖昧なことをツラツラ書いていても仕方ありません(笑)

さて、バスは無事、飯田橋の体育館に到着。器具類を地下1階のトレーニング室に運び込み、従前のように配置して終了。これでやっと8泊9日の合宿全行程が終わったのでした。

ふと、体重を図ってみましたが、なんと3キロ増えていました。機器が壊れているのではないかと思ましたが、3キロ増は本当のようで、たまたまそばにいた4年(統制)のS本先輩が「お前、今回の合宿で体重増えたんか?全く化け物みたいな内臓してるな!」と呆れ顔。それを地上階で整列していた部員に吹聴するものだから、こっちは有難迷惑。適当にサボってトレーニングしていたと思われないかと思い、冷や冷やモノだったのです。

まあでも、先輩の中には真面目に「お前、身体強いよな」と正直に褒めてくれる人もいて、この合宿で根拠のある自信を得たのでした。

地獄の夏合宿 その5

中日の観光日が終わると後半3日を残すのみとなり、よーし後半分!という雰囲気が部内に漂ってくる。実際、後半の午後のトレーニングはイベントが続き、マラソンコースの下見、ヒンズースクワット、そして最終日のマラソン大会で終了となる。あらかじめ、予定が発表されたので、精神的には楽だった。不安が無いと言えば嘘になるが。ただ、1名の脱走者のおかげで(という言い方が正しいかわからないが)「自分たちは乗り越えてきたんだ」という自信を得ていたことも確かで、ひとつの成功体験だと言えよう。長い人生の中で、18歳の夏のちょっとした出来事であっても、自身につながれば悪くは無い経験だ。

さて、マラソンは約20キロを走ることになった。たぶん事前にOBの車に乗り、先輩らが距離を測定したのだろう。おそらく距離については喧々諤々の議論があっただろうが、それにしても今の時代から考えると「無謀」となるだろう。1980年代はその「無謀」が「当然」だったのだ。

マラソン大会の前日の午後のイベントはヒンズースクワットだ。1,000回だったか2,000回だったか記憶にないが、100回を1セットとして何セットかを時間をかけてやり切ったと記憶している。その喜びよりも、明日はマラソンなのか・・・という思いしかなかった。

合宿中に右足の小指の皮が擦れて出血し、痛くて靴が履けない状態だった自分は、この足でどうマラソンを走るか思案した。そこで、観光日用に持参したビーチサンダルを履いて出ようと決めた。足への固定をした方が良いと思ったが、テーピングテープなっどという洒落たモノなど持っていえるはずもなく・・・。

マラソンコースは20キロ超。ゆっくり走ればいいや、ぐらいの気持ちで走り切ったが、不思議と感動は無かった。何より合宿から解放される喜びの方が勝っていたのだ。順位は後ろから数えた方が早いぐらいで、トップで到着した先輩の中にはシャツを着替えていた人もいた。

夕食は〆の宴会となることは必至で、いつもの夕食とは違っていた。全員が席に着くと、徐々に大量のビールが運ばれてきたのだった。前期の納会と親睦団体の宴会で、公式の飲み会は経験していたが、やはり合宿で酷使した身体にはビールでさえ堪えたようだ。ある先輩は酒が飲めない体質で、牛乳の一気飲みをやりまくり、会の途中から下痢になってトイレを往復していた。同期の女子はひとり泥酔して、うんこみたいな色のゲロを吐いて部屋に横たわっていた。今もあの色の正体は謎だ。その彼女とは昨年11月だったかに数十年ぶりに電話で話したが、その時聞いておけば良かった(笑)

さて、事件はこの後・・・。

地獄の夏合宿 その4

初日トレーニングは発声練習で終了となる。まず自己紹介を一人ずつ行い、2回目は自己紹介と歌を歌うのだが、発声練習であるが故に、上手く歌ってはいけない。歌が上手い部員はたぶんいなかったはずだが、それでも2年生の河野先輩は地声が良いためか、余裕で大きな声を出していた。1年生は人数こそ多かったが、3人の2年生に声の出し方で負けていた。当時はなんて馬鹿なことをやるんだと思っていたが、後々気が付いたことがある。人生の中でこれだけ大きな声張り上げる機会なんてあるのかなということ。おそらく自分自身で出せる目いっぱいだと思っていても、実際には五割程度しか出ていないこともあっただろうし、バーベルを扱う場面でも、まだまだ力を出し切っていないなと自分を戒める材料になり得た。人間、やってみて無駄なことはそうそうあるものではないなと思ったし、やっている時は無駄だと思っても、後々その価値を感じるものなのだ。

さて、初日が終わった。先に書いたが、1年生が上級生の御用聞きをする仕事はなかったので、食事が済んで風呂に入ると自由時間が得られた。風呂は4年生から順番に入るのだが、3年生の先輩らから「2,1年も一緒に入れ!」との通達があり。恐る恐る大浴場に入って行った。だが、特に3年の先輩らは1年生を気遣ってか、「今日はちょっときつ過ぎだな」「明日はもうちょい楽したいな」と、4年生が耳にしたら大目玉食らわせられそうな発言の数々。そこそこ緊張して聞いていたのだが、気が楽になったのは確かだ。しかしながら、上からと下からの鬩ぎあいであえいでいた2年の先輩は「お前ら、気抜くなよ」と頑なさは消えない。まあ、硬軟取り混ぜて1年生を盛り立ててくれていたのだろうね。そういう意味ではとても民主的な部活動ではありました。

部屋でのんびりしていたのもつかの間、上級生の先輩が「おい、S田逃げたらしいぞ」と、部屋に飛び込んできた。反応の遅い、というか、何を言われているのか全く理解できない1年は、お互いに顔を見合わせたままだった。先輩が「おい、同級生が逃げたんだぞ。放っておいていいのか!」と檄が飛び、皆飛び起きて駅方向に追いかけたのだった。この時、OBの先輩(宿の若旦那)が車で追いかけたのか、筋肉痛を抱えた1年生が追い付いて引き返させたのかは記憶に無い。正直、厄介なことしやがってというのが本音だった。記憶にあるのは、引き戻されたS田が主将のM山先輩の前に立ちすくみ、いつも穏やかなM山先輩が鬼の形相で、しかし静かに説諭していたことだった。つまるところ、「逃げるのではなく、きちんとけじめ付けて帰れ」ということだったが、引き止めなかったのは、S田を観察しての判断だったのだろう。

奴は事前合宿には来ておらず、聞くところによると、掛け持ちのサークルの合宿に河口湖あたりで楽しんできたらしかった。行きの観光バス内では楽しそうに歌を歌ったりしていたが、先輩の中には「こういう奴が危ないんだよな」と思っている方も多かったらしい。彼は翌朝、朝飯も食べずに東京へ戻ったが、不思議と喪失感などなく、逆に自分が一山越えたかのような錯覚に陥り、根拠無き自身さえ感じたと記憶している。

2,3日目を無事乗り越え、中日は観光日。筋肉痛を抱えての観光だったが、逆に身体がほぐれたのが妙だった。今思えば、さすがボディビル部で、積極的休養だったのだと今では思えるのだ。

しかし、事件はこれだけでは終わらず、最終日に・・・。

地獄の夏合宿 その3

午前中のウエイトトレーニングはマシーン類が皆無であるため、バーベルとダンベルのみを使ったトレーニングとなった。最初はベンチプレス班が3班、スクワット班が3班程で、それぞれ5,6人の編成。インターバルが長くなるため、トレーニング自体はきつくは無かった。だが、どんな種目を行うかは各班の班長に委ねられていたため、アイデアの乏しい班長の班は、それでもウエイトトレーニング?と思えるような種目をさもきつそうに行なっていた。

午前中のスケジュールが終わると宿に帰って昼飯。それぞれゾロゾロ歩いて帰るものだと高を括っていたが、統制の先輩を先頭に、ほぼダッシュで宿まで帰る始末。こんなのが中日挟んで6日もあるのか・・・と愕然とした。

さすがに昼飯後はしっかり昼寝が出来た。後から聞いた話だが、親睦団体(五武道会という名)の同級生らの部では「御用聞き」として、始終先輩の部屋のお世話をしなくてはならず、昼寝など夢のまた夢。ボディビル部は恵まれていたのだ。

さて、しっかり休養を取って午後のトレーニング。これはほぼ土曜日に行なっているメニューをボリュームアップさせた内容。現地の気温は35度前後で、よくぞ熱中症で誰も倒れなかったと思う。

初日のメインは「スローランニング」。宿から1キロほど離れた小学校のトラックをお借りして、部員全員がスローペースでトラックを走るのだが、1時間も走っただろうか。これで終わりで休憩かと思いきや「次はひとりずつダッシュして列に追いついたら次の奴がダッシュ。これを全員終わるまで!」と統制の先輩。上級生が先に走るのだが、下級生の前でだらしない姿を見せまいと必死に走る先輩たちの様子を見て、戦々恐々な1年生だった。

全員走り終わった時に、1年生の誰かが余分なことを口走った。「ああ、終わった」と。それを聞き逃さなかった統制の先輩は、眉間に皺を寄せて、人数を数え始めた。すると、「じゃあ次。4名1組でダッシュ。ビリの奴は終わってから1人でダッシュ。」と吠えたのだ。これにはさすがに上級生からも「ええ!」という表情。この4人ダッシュ、障害あれほど一所懸命走ったことがないくらいに走ったと記憶しているが、順番は記憶に無い。その後一人で走らなかったからビリにはならなかったのだろう。

事件がなかなか起きませんね(笑)

地獄の夏合宿 その2

初日の朝。朝練と云うのがあって、確か6時半ぐらいが集合時間だったと記憶している。いや、もう少し遅かったかも知れない。いずれにしても6時半集合だと4年生が6時半集合であって、3年はその5分前、2年は10分前、1年生は15分以上前に集合と云うことになる。だが、朝起きられないということは無かった。しっかり睡眠を取ることが出来たからだろう。

集合完了すると、統制(役職)の先輩が先頭になり、40名程の集団はジョギングより少しばかり速いペースで走る。1年生にとっては、いや、学年に関わらず、他の4年生でさえもどのくらい走るのかは分からないのだ。つまり統制の先輩の考えひとつで長くなったり短くなったり。このことが後から反吐を吐くぐらいのトレーニングに繋がるわけである。

朝練の名物は声出しである。自己紹介と自慢の曲を1曲歌うのだ。紹介は出身高校と所属学部そして氏名、曲は決して上手く歌ってはいけないのである。

〇〇県立××高等学校出身!△△学部▽▽学科1年!法政太郎で~す!ってな具合だ。

この声出しには2年生も参加していたのだが、1年生全員が出す声が2年生3人の出す声に確実に負けているなと感じ、1年の長は凄いものなのだと感じたのだが、当時は大きな声を出すこと、出せることが良しとされていたからでもある。

歌う曲に注文が入ることがたまにあったが、今思うと、正直先輩らは俺たちの歌を聴きながらフツフツと笑っていたので、彼らにとっては息抜きでもあったのかと思えるのである。

自分はこういうアナクロニズム的な行為は嫌いではなかったので、特に反発は無かったが、別段一所懸命さを前面に出して声出しや1曲披露せずとも特に問題無いと考えてはいたが、その場をしのくためにはそれなりの立ち振る舞いが必要と判断し、傍目には一所懸命やっていたと写っただろう。こういうものは通過儀礼なので、あまり深刻に考えても身体に悪いだけ。そういうある種醒めた考えを当時の自分は持っていたようだ。

午前中のウエイトトレーニング。トレーニング場が宿からずいぶん遠くにあったため、昼飯後の休み時間がそれほど長く取れず、少し横になっただけで、準備に向かわなければならなかった。1年生全員で固まっていくわけでもなく、それぞれが思い思いの判断で宿を出て体育館に向かった。

事件はまだまだ先のこと・・・。

地獄の夏合宿 その1

1983年夏の合宿はOBの先輩の実家、夫婦岩で有名な三重県の二見で行われた。事前に3日連続の準備合宿があったが、ウエイトトレーニングを行なって1時間足らずの休憩をはさんですぐさま屋外での「走る」トレーニングに移った。後で感じたのだが、合宿は昼飯と昼寝の時間があったので、この準備合宿の方が辛かったということ。終了後はプロテインを飲んですぐに帰宅して寝るしかなかった。

準備合宿の最終日は器具類の積込作業が待っていた。大学の体育館地下1階に所狭しと並べられた器具類を全部トラック積む作業。自動車部所有のトラックがすでに体育館に横付けされており、上級生の指示のもと積み込んで行くのだが、その積み方で部員同士で揉めたりしていて遅々として進まず。1年生の多くは「早く指示出してくれよ」という顔をしていた。毎年やっていることなのだから、写真を撮っておけば良いようなものだが・・・。

当時、部員は40人前後。観光バス1台に全員乗れたから、そのぐらいの人数だっただろう。バスは市ヶ谷にある法政大学体育館を出て、記憶の限りでは中央道で一路名古屋方面に向かった。途中、名神高速から自分の母校が見えたのだが、誰にも言わずに黙っていた。それよりも帰りはここらで下ろしてくれるとありがたいなと思っていた。

休憩をはさみながら、特に渋滞に巻き込まれることもなく二見に到着。合宿初日は明日であり、先輩から数々の注意事項が通達された。特にOBの経営する宿で、OBが通常より大人数来られるとのことで、上級生の方がピリピリしていた。

さて、合宿2日目の朝が来た。実質上初日だ。この日の夜、ある事件が発生する。今の時代からすれば前代未聞なのだが、この事件で「この合宿は乗り越えられる!」と妙な自信を得たのだった。

さて、その事件とは?

1年生は奴隷?

1年生は奴隷、4年生は王様・・・よく覚えていないが、2年生の先輩からそんなことを吹き込まれた入部当初だったが、後に他団体の同級生と付き合うようになって、我がボディビル部は意外と民主的な集まりだなと思ったものだ。

入部時2年生はたった3人。同級生は、そうだな・・・最終的に自分含めて4人と女子4人が4年生になっていたが、当初は15人ぐらい部員がいたはず。1回参加して消えた奴、学生服を着たくなくて辞めた奴など。先輩からは「夏合宿後に固まるよ」と聞いてはいたが、果たしてボディビルで夏合宿?という疑問が湧いたのだった。

当時の合同トレーニング、つまり部全体で行うトレーニングは、月・火・木・金がバーベルを使ったトレーニングで土曜日は皇居1週を含めた陸上でのトレーニングだった。ボディビルダーとは言え、走れないようではアスリート足りえないなどという考えがあったのか分からないが、受験勉強でなまった身体には皇居1週は随分堪えた。まあでも、前期が終わるころには馴化したらしく、そこそこ楽に走れるようにはなった。そのおかげか、体育の授業では12分間走を3,000メートル近くまで走れる力が付いた。

本来は短距離ダッシュが筋肉をつけるために有効なのだが、マラソン選手やトラックの長距離選手ほど走るわけではないので、皇居1週は無駄ではなかったのだ。ゆっくり走ることで、走ることに使う筋肉や、その筋肉の無駄のない動きを得るには走るしかないわけで、バーベル運動で筋肉をつけても、それを走りに生かすには走らなければダメなのだと18歳にして悟った。今思えば我ながら気づきが早い(笑)

当時は前期と後期の締めの会があり、所謂飲み会が開催されていた。名だたるOB諸氏が会に参加されるということで、上級生からは相当口うるさく注意点を毎日聞かされた。ビールはラベルを上にして注ぐ、飲めなくてもグラスは必ず携行する、グラスは両手で持つ、などなど。当たり前と言えば当たり前だが、今の時代「面倒くさい」と敬遠されてしまうような内容だ。

思い出したが、OBに回会の案内を郵送することは2年生の指導の下、1年生が行なっていた。往復はがきにOBの住所以外を昔ながらのガリ版刷りみたいな道具で印刷していくのだが、インクが多すぎたりして印字した字が全く読めなかったりと、ずいぶんハガキを無駄にしたものだ。プリントゴッコが使えるようになったのは上級生になってからで、「今の1年は楽でいいな」と異口同音に話したものだった。

そんなこんなで前期が終了。でも、これで解放されたわけではなかった。上級生らが口々に「地獄の合宿」と言われる夏合宿が待ち構えていたのだった。そのための旅費づくりは、お中元の時期と言うこともあり、日本橋の高島屋さんに入っていた運送会社の助手を部員総出で行うことになっていた。自分は自分で何かアルバイトをやろうと考えていたが、体制に押し流されていったのだった。

そういうわけで世間では当時すでにポピュラーであった「五月病」などにかかることも無く、有意義な学生生活であったと言えるだろう。ただ、疲労のため2か月に1度ぐらいは高熱で寝込むことがあり、心配ではあった。

ボディビル部に入部

腫れて大学生になった僕は上京し、まずは入学式に臨んだ。当時の総長ぐらいは覚えているが、来賓が誰だったかだとか、その来賓の祝辞の内容がどうだったかは全く記憶にない。他の新入生と違ったのは、自分だけスーツでは無かったということ。両親はスーツを仕立てるつもりだったが、こうこう3年次にバーベルをやるつもりだったので、どうせ身体がでかくなるからと、それを拒んだと記憶している。結局、妙にカジュアルな、汎用性の全くない服装を切る羽目になり、あんな服を着るならスーツを仕立ててもらった方が良かったと後悔した。

当時、ボディビル部の出店は経済学部の掲示板前にあった。自身、経済学部へ入学したものだから、どういう連中が勧誘しているものかと出店を見に行ったのだが、どう見てもボディビルという体形の先輩方はおらず、「着痩せするのだろうね」と心を落ち着かせた。こちらは入部するつもりでいたのだが、OBの誰それを知っているか?この先輩だよ。などと説明をされるだけで、一向に入部させてくれない。いい加減しびれを切らした18歳の自分は「あの、入部させてくれないのですか」と生意気にも尋ねたのだが、それに驚いた先輩方は「じゃあ体育館のトレーニングルームをまず見てもらおう」と焦った様子で、群馬県渋川市出身の先輩が案内をしてくれたのだった。

トレーニングルームは当時としては相当器具類が揃っていたと記憶しているが、バーが10キロでプレートが鉄製の代物。隣で練習していた重量挙部の使うバーベルから見れば、少々見劣りするなと素人ながら感じたものだ。

無事入部して最初の練習日。新入生は15人ほどだったと記憶している。現役生は同い年だが、中には2浪した奴もいたりして、現役で入学した3年生と同じ年齢なんだなと、当たり前のことを考えていた。年齢が上でも下でも、いつ入部したかによってヒエラルキーが決まるわけで、年上の人間を後輩として、また、年下の人間を先輩として振る舞うのであるから、大学と言うところは面白いところだなと感じたものだ。

ちなみに大学は法政大学で、自分が入学した年に法政大学ボディビル部2人目の全日本学生チャンピオンが誕生したのでした。

バーベルとの出会い

記憶にある限り、バーベルを握ったのは高校時代の2年生、水泳部の冬の陸上トレーニングの一環として、ウエイトトレーニングを行った時だ。顧問の先生が愛知県内で相当有名な水泳コーチだったこともあってか、1980年代の初めごろに既にウエイトトレーニングを導入していたのだ。と言っても、ベンチプレス台やマシーンがあるわけではなく、背中を中心に懸垂(2回ぐらいしかできなかったので、1分ぶら下がりを数セットやっていた)、ベントロウを行い、うつ伏せでパッドをプルするマシーンで仕上げる、という具合だった。使っていたマシ―ンは画像のような立派で高価なものではなかったが、強く引くとそれだけ高負荷がかかる方式の優れもので、適当に流していると「ほらあ~ちゃんと引かんかい!」と先生にどやされたものだ。

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正直、適当にやっていたトレーニングだが、1か月ほど経過すると、徐々に筋肉が大きくなっていることを感じた。クラスメイトも肩幅が前より広くなったようだと言ってくれた。そうなると嬉しいもので、それまで1日おきだったウエイトトレーニングを毎日行うようにしたのだが、2週間ぐらい続けた時点で疲れてしまい。1週間ぐらいまったくバーベルを握らなかった。顧問は「少し休め」とだけ言って、細かな話はしなかったが、書店で見つけたボディビルの本に、毎日トレーニングすることは筋肉の発達には良くなくて、トレーニング後はしっかり栄養を摂って休むことがもっと大事だと書いてあった。その本は窪田登先生が書かれた「新ボディ・ビル入門(ベースボールマガジン社)1972年」だった。

3年生になって水泳部を引退後、受験勉強体制に入ったわけだが、さまざま工夫して部屋の中でトレーニングを行っていた。リュックサックに古新聞を詰め込み、それをダンベルに見立て、床に寝てプルオーバーを行うぐらいが関の山だったが、水泳部での活動で得た胸郭がこの運動でどんどん大きくなっていった。ただ、古新聞を詰め込むだけでは重さに限界があるため、高回数で行うしかなかった。

さて、そういう中で無事大学受験をパス。上京することになった1983年の春。