冬合宿と入学試験アルバイト

さて、年が明けて1984年。授業はたった1週間ぐらいしか実施されず、というか学年暦でそうなっていたのだが、すぐさま定期試験期間に入った。1年生の語学授業はすべて授業内に試験を実施するため(定期試験で語学の試験は聞いたことが無い)、定期試験は一般教養科目と専門科目に限られた。1年時の配当科目で専門科目があったかどうか、また、履修登録したかどうかは定かではない。一般教養科目に自然総合という科目があり、これは授業内試験と言うか、四分野(化学、物理、生物とあとひとつ何か忘れた)別々の教員の授業を受け、最終授業時間にレポートを提出する類の授業だったが、所謂理系科目は苦手、というか興味が無かったので、単位取得はほぼ諦めていたが、Bで単位を取れた。格好つける訳ではないが、あんなレポートでB評価ってのはなんだか納得いかなかった。大学の勉強ってのは単位取得すれば理解できたということではなく、理解できるように、納得できるように勉強する姿勢が大事なんだと気づいた1年生の終わりだった。

もうこれは時効だろうから言うが、所謂「カンニングペーパー」を作って、試験会場に持ち込んだことがあった。だが、今現在のようにコピー機など大学に設置されておらず、大学の近くに印刷会社(体育館から逓信病院の坂を下りきらないで、右へ折れる)があったので、そこで金払って小さめにコピーをしたものだった。そこの社員さんは、その小さなコピーをどう使うかは薄々分かっていたはずだが、誰も咎める人はいなかった。当時はその言葉は無かったが、自己責任と割り切っていたのだろう。自分は作るには作ったが、コピー機の性能の問題でほぼ読めず、結局最終的には自分で小さく書いて作成した。ただ、何度も書き直したためか、文脈はともかく、設問に対する的確な回答は記憶を辿ることで十分対応できたので、結局カンニングペーパーは使わず、であった。

定期試験が終わると、少しおいて冬合宿が始まった。この合宿は自分より6代ほど上の竹内先輩の代が開始したもので、バーベルは全く使わない合宿であった。当時、部の顧問をされていた職員の坂口さんが、「全身的な運動能力の向上を目指すことこそ本来のボディビル」との持論をお持ちで、ことあるごとに強調されていた。それに沿った合宿内容で、走る走る・・・なのだったかも知れない。いやいやながら走っていたが、今思えばもう少しポジティブに捉えて取り組みべきだったと今では感じている。

合宿終了も早々に入学試験準備のアルバイトに突入。冬合宿は法政二高の敷地内にある体育棟に宿泊して行なっていたが、非常に寒い時期でもあり、夏合宿以上にトレーニング後のケアに気を遣った。この頃、サプリメントはプロテインしか摂っていなかったが、ポポンSを持ち込んで、寝る前に推奨量の5倍ぐらい飲んでいた。今で言う「メガドーズ」だが、ビタミン剤の効果をひしひし感じたものだ。

合宿地の法政二高が入学試験会場として使われており、一時期を除き今でも使用されている。自分たちの当番キャンパスは法政二高であり、合宿終了後そのまま入試会場準備に入ったと記憶している。ボディビル部は単独での活動時は和気藹々とした民主的な団体であるが、他団体と合同で活動する際は居場所の無い感覚を覚えたものだ。要するに武道系の連中の気合の入り方が尋常でなく、ああまでやらんでも・・・というのがこっちの本音。

さて、入学試験における仕事内容は廊下に座っているだけだったが、風が吹き込む廊下の寒さに耐えかねて、ついつい眠ってしまったり、貧乏ゆすりの音がうるさいと試験監督の先生方に注意された。風が吹き込まない廊下では、ついつい寝入ってしまう。寝入った時に限って、責任者の上田先輩がそこに立っていて、神出鬼没さ加減に恐れ入ったわけである。

このアルバイトは大学に雇われているわけで、法政大学の腕章をして、文字通り法政大学のスタッフとして働くのであり、受験生から見れば「スタッフ」であり、このアルバイトで初めて働くことの意味と責任感を少しだけ感じたのであった。入学試験期間が終わると次回行事は3月末の春合宿だが、このために部単位でアルバイトを行うことはなく、個人個人でアルバイトを見つける必要があった。

その春合宿費用をどう捻出したかは記憶が無いが、仕送りと学費以外親に無心したことはなかったので、何か良いアルバイトでもしていたのだろう。記憶が無い・・・。


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夏と冬のアルバイト

全日本学生大会が終わり、4年生は完全に引退。後期の最初に幹部交代式を終えて、1年生は正式部員として認められたとはいえ、この大会が終わってやっと正式に幹部交代となった感があった。新幹部の先輩方は大人数で、キャラクターもバラエティに富んでいた。女子の先輩が二人いたのだが、合同トレーニングで顔を合した記憶があまりない。男子の活動欠席には厳しい態度な先輩らも、女子部員の欠席には甘かったのか?

12月の半ばあたりから部員全体で日本橋の高島屋のアルバイトをすることになっており、自身が継続して従事しているアルバイトが無ければ全員が高島屋アルバイトに就くことになった。ただ、働くのは高島屋の店内ではなく、北別館の中にある作業場で、通称「トラック班」と呼ばれていた。西多摩運送という運送会社の下で働くことになり、外商が扱う御中元の品物をトラック(実際はハイエースなどのVAN)で運ぶのだ。ただ、運ぶ人は全員が社員ではなく、繁忙期にスポットで着ていたドライバーさんもいた。

アルバイト先はアットホームな雰囲気で、所長や経理関係担当のおばちゃんが穏やかで優しい人で働きやすかった。ただ、しばしば終業時刻が21時過ぎになることが多く、翌日授業内試験がある時などに限って残業だった。また、真面目な部員は授業内試験があるときは朝出勤して一旦抜けて、試験が終わると再び高島屋へ戻り働いていたが、試験のある日は全休にしていた俺。

このアルバイトは夏のお中元の時期に既に経験済であった。1年生当時、東武練馬駅の近所にひとり住まいだったので、そこから日本橋まで超満員電車で疲弊しながら通ったはずだが、記憶には無い。あるのは大学の最寄り駅である飯田橋駅から東西線を使って日本橋まで通った記憶だけだ。当時、東西線は社内冷房が無く、扇風機がビュンビュン回っていただけだが、よくぞあの環境で皆耐えたものだと思う。経済状況の良い頃だったので、満員電車もさほど気にならなかったのか、当時のサラリーマン。

このアルバイトでいくら稼げたかは全く記憶が無い。夏合宿の支払金額は6万円ちょっとだったが、おそらく仕送りの一部と合算して支払ったと記憶している。冬のお歳暮時期のアルバイトは、後に合宿を控えているわけではないので、稼いだ金は全て自分のために仕えたが、だいたいがプロテインやおいしい食事に消えた。学生時代からエンゲル係数の高い生活は今も同じだ。

さて、1983年が明けて1984年となった。最初の行事は冬合宿。それが終わると入学試験のアルバイト。授業期間以外にもこうもたくさんの行事があるというのも妙なクラブ活動だなと思っていた。詳しく説明すると法政大学ボディビル部は体育会所属ではなく、学生団体連合という学友会のひとつの団体だった。他の武道系クラブと親睦団体を組織していたが、これは「自称」団体で、学内では通称だった。

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大会雑感

1年時に出場したボディビルの大会は、秋開催の関東学生新人戦(1,2年生対象)だけだったが、関東学生大会ではその年に学生チャンピオンになった松山先輩のセコンドを仰せつかり、会場で応援するというわけにはいかなかった。

当時、法政大学は学生ボディビルのメッカとして全国の大学の、それもボディビルに春を捧げるバーベル学生ら(随分世界が狭いが)の憧れの地だった。もちろん学生運動の拠点でもあったのであるが、この話は日を改めて。

関東学生大会では松山先輩の優勝はほぼ確実視されていた。ボディビルの大会の順位は、大会までの準備がどううまく出来たかで決まるもので、会場で一発逆転はあり得ない。もちろん秋に行われる東日本学生大会で全日本学生大会への切符を掴んだが、調整不足で2,3位に甘んじた選手が劇的に変化を遂げて、全日本で東日本、西日本等の優勝者を蹴散らして優勝ということもあるにはあった。

当時はオープン参加制度があり、前年まで東京大学の学生として関東学生大会で3位を得てた北村克己が学生とは思えない巨大なバルクを披露。圧倒的な身体を観客に見せつけ、魅了した。大会後の松山先輩の表情は冴えず、やはり全部ひっくるるめたら勝てなかっただろうという思いがあったのかもしれない。カテゴリーが違うとはいえ、同じステージに立てば、圧倒的に勝ちたいと思うのは当然。自分も何もかける言葉がありませんでした。

「松山登代志」の画像検索結果
これは松山先輩が3年の関東学生の時(1982年)です。参考までに。

東日本大会で全日本大会への出場権を得た先輩らにとって立ちはだかるのは例の学園祭で、自分が1年生の時、3年の先輩で出場者はいなかったのであるが、その後自分らが上級生になるに従い、下級生で力をつけてきた連中がその洗礼を受けることになった。当時はまだ言葉さえ知らなかったが、あの激務で疲労するだけならまだしも、疲労が抜けないでいると筋肉を削って身体を保とうとする働きが生まれ、これをカタボリックであると後に知ったのだったが、まさにそれを心配していたのだ。

当時は東日本勢が飛びぬけており、全日本学生の結果は1位松山(法政)、2位岩間、3位江口(東京)と表彰台を関東勢が占めた。2,3位はまだ2年生であり、来年もこの二人を中心に学生ボディビル界は展開していくものと思われた。このあたりのことはこちらのページに詳しいので掲載しておきます。 早稲田大学バーベルクラブのOBが書かれているようです。http://www.gungoo.com/exercise/backnumbers/bn015.html

狂気の学園祭 その5(これで終わり)

最終日の狂気の宴会でほぼ記憶を失くした自分は、警備本部の床の上で目を覚ました。古武道の同級生とバケツを奪い合って吐いていたことだけは何故か鮮明に覚えているのはどういうことだろう。二人で顔つき合わしてひとつのバケツにゲロを吐く様を想像して欲しい。一生の中でなかなかできる経験ではないなと思うだろう。

二日酔いだからと後片付けをさぼるわけにはいかず、上級生や実行委員会の先輩方の指示に従い、 キャンパスのあちこちに散らばった、通常は廊下に並んでいる椅子を回収し元の位置に配置するのだが、この椅子が重い重い。二日酔いと疲労困憊の身体に鞭打ってようやく昼過ぎに人力でできる仕事が終わり解散となった。

キャンパスは暴動が起きた後のようになっており、ピロティ下はなぜか泥でいっぱいで、キャンパスには材木や釘などが散乱していた。重機が数台入り、ガアアアっと音を立てながら作業する様はとても大学の構内とは思えなかった。

作業中、クラスメイトと合ったらしいが、あまりの疲労に記憶が無く、授業でそいつと会った時に「学園祭警備、過酷だったんだな」と労ってくれたのは嬉しかった。クラスメイトのほとんどは学園祭休みと称して帰省したり、レジャーに出かけたりする奴が多く、学園祭で風呂も入れず警備して、それでもバンカラ気取ってるような学生は少数派なのだと感じた。

他団体の同級生と疲れた身体を引き摺りながら飯田橋駅に向かう。娑婆に出る(当時、学園祭実施中の学校外をこう呼んでいた)と、自分らが如何に臭いかを自覚する。この臭さで電車か・・・と思いながらも、周りの目を気にしながらアパートに到着。風呂は無いので、銭湯が開店する時間までお湯を沸かして身体を拭いて凌いだ。あのまま銭湯に行っていたら、客に迷惑だっただろうに。

そんなこんなで、大学1年時の秋は過ぎて行った。

狂気の学園祭 その4

この記事を書きながら「どこが狂気なのか?」と考えてしまったが、書いてみると大して狂気でもなかったと思えてくる。実際、起きた事件についてはそこそこ鮮明に覚えており、学園祭期間の妙な集中力こそが狂気だったのだろうと分析してみたりする。

さて、最終日も盛り上がるが、企画によっては出店の撤収を図るケースもあり、いよいよ終焉に向かっているのだなと感じた。一方、今夜が最後の夜だとばかりに必要以上に飲む騒ぐ連中が多く、魔の時間帯の警備担当者はそうとうにハードだっただろう。

511番教室。この教室は通常授業で使用され、サークル団体の講演会、はては総長断交などが行われた歴史のある教室。この由緒ある教室も55、58年館の取り壊しで一切が消滅する。で、ここは学園祭期間中「虎箱」と呼ばれる一室、いや収容所名称が変わる。つまり酔っ払いの一時収容所となるのだ。稀に暴れる連中もいたが、多くは付き添いの友人に背中をさすられながらバケツに静かに吐く姿が散見された。

体育会の学生がそうなった場合は体育会委員長に直電話するようになっていたが、当時携帯電話など無いので、下級生が本部までダッシュして知らせるか、警備本部から内線電話で知らせることになっていた。

狂気の学園祭は後夜祭でフィナーレを迎え、否が応でも終わったなと皆が感じる瞬間だったが、そこはかとなく寂しい気持ちにもなったものだ。

警備陣は学生を一斉追い出しにかかる。完了し次第、警備担当者だけの宴会が始まるのだが、疲労困憊の部員らの中にはビール1杯で寝込んでしまうものもいたりした。泥酔して暴れる下級生もいて、上級生は往生したらしい。「お前のことだよ!」と他団体の先輩に学園祭後数日して言われたが、記憶にない(笑)どうやら3人がかりで羽交い絞めにしたらしいのだが、それを蹴散らしてしまったようで・・・。

狂気の学園祭 その3

学園祭の企画で興味深いのが「星空活動大写真館」というタイトルの催し。今現在でも同じ企画名で実施されているようだが、著作権の問題は片付いたのだろうか?これ以上は触れないようにしよう。

この企画は今は無き学生会館の前に組んだイントラに超大画面のスクリーンを張り、日没後、空が真っ暗になるのを待って映画上映を行うもの。上映するのは決して高尚な内容のモノでもなく、ほぼアニメだった。

アニメと言っても、それらの発信するモノには重みがあり、俗っぽいコピーを引用すれば「大事なことはすべてアニメが教えてくれた」と言っても良いぐらい。NHK朝の連ドラ「なつぞら」を観ていると、アニメは大人たちが思考錯誤して作り上げた芸術なのだと思わざるえ終えないのだ。

「あしたのジョー」「ウルトラマン」などが記憶にあるが、警備担当が外回りで、しかも魔の時間帯の担当になった時だけ観ることが出来たのだった。パンフレットが出来上がると、この企画のページを真っ先に見たものだ。ハヤタ隊員が落としたベータカプセルに手を伸ばすシーンでは、ハヤタコールがキャンパス内に鳴り響いたものだ。妙な連帯感を感じた。学園祭見学に上京した関西の大学生が「法政の学園祭、ええわ~」と叫んでいたのを見て、少々誇らしく感じた。

我がボディビル部は学生ホール内にで店を出し、こちらは警備が非番の時に手伝いを行うが、主力は女子部員とその姉妹(笑)。男子は段取り悪いから座っていて!と怒られる始末。また「ミスター法政」と言う企画も行なっていたが、自分が3年の時には人員が足りないと言い張る主務の判断があり中止に。こういう企画ものは一度中断するとなかなか再開することは困難で、その後一度も開催しなかった。自分の代で途切れさせてしまったことが今でも悔やまれる。

狂気の学園祭 その2

細かな警備スケジュールは省くが、警備担当の時間帯でもっとも過酷だったのは2日目、最終日の18時以降の時間帯。深夜12時で休憩(一応寝られた)に入るわけだが、場合によっては1、2時まで現場を離れられないこともある。特に各部の3年生は夜中はほとんで寝ていない状態で、朝方の比較的何も起きそうもない時間帯での仮眠で学園祭を乗り切ることになる。その点、1年生はスケジュール通りに動けばいいので、気楽と言えば気楽。

当時、法政大学の学園祭への出店はほぼ100%居酒屋だった。あれだけ居酒屋が集中する学園祭は全国の大学でも例を見ないだろう。クラスメイトで法政二高出身のF君が唯一クレープ屋を出店して3万円ほどの利益を上げたと聞いてびっくり。でも、今思えば、ピロティの下で店出せたのは何か大きな力が働いたのだろうか。初めての出店でほぼ一等地に近い場所に地割してもらえたなんて・・・。

喧嘩が起きると(必ず一晩に数件発生)警備本部に一報が入る。電話が鳴ると、警備本部に待機している自分らは、何の電話かとドキドキしたものだ。「ピロティの経済学部掲示板前で、サラリーマンと店の学生いざこざ!至急!」と号令が発せられると、待機中の半数が現場に急行。こういう場合のサラリーマンは法政OBではない場合がほとんど。考えてみればわかるはずだが、母校の学園祭を訪れ、出店に顔出すのはそのサークルのOBかOG。さすがに後輩と揉めることはあり得ない。また、店や企画で揉め事が起きれば、警備責任者と学園祭実行委員会との間で協議し、出店も企画も中止という措置が取られたため、店側も揉め事については神経過敏なのだ。

では、OB,OG以外や他大学の学生が揉め事を起こした原因だった場合はどうなったか。想像にお任せしたいが、ただでは済まなかったとだけ言っておこう。

こうして1年生での最大行事である学園祭は最高潮を迎えたのであった。

狂気の学園祭 その1

狂気、気が狂ったことを意味するわけだが、決して自分らが狂っていたわけではなく、気を狂わせるぐらいしないと対応できない経験だった。

我が法政大学の学園祭は当時(1983年)、11月の末の勤労感謝の日付近に、準備日として確か午後以降が休講、本番がその翌日から3日、後片付け日が1日の合計5日間が学園祭期間として設定され、休講措置が取られていた。(期間は不確か)

自身が学園祭の渦中にいたというのに、その内実を知ったのが母校に職員として勤務して学生課に配属になってからのことだった。自主法政祭は学生だけの力で運営されるもので、もちろん大学が学園祭のコンテンツにコミットすることは無く、大学側がやっていたことは、近隣住民からの騒音苦情対応や夕方から深夜時間帯の企画教室へのごみ用袋の配布、職員の立場から見れば、「自主」は看板であり、中身は大学当局と一体となって開催されていたと言える。

実は学園祭の前段で、1年生がやらなくてはならない仕事があった。学園祭のパンフレットに掲載する広告を取って来ることで、新規開拓はそれほど無かったが、何十年も広告を載せてもらっている会社や業者であっても、必ず広告費のことや、掲載してもこっちの売り上げに直結するわけでは無いし、などの愚痴を聞かされた。数軒廻って、セールスマンには絶対なるまいと誓った。自分にどんな職業が合うかの話はよく聞くが、自分としては合わない職業ややりたくない仕事をピックアップした方が効率が良いと感じている。

業務としては昨年と同じ値段を提示せず、少し多めに提示して様子見。その金額でOKが出れば良いが、出なければ昨年並みまで下げて再交渉しOKをもらう。新規開拓は記憶にないが、昨年掲載した会社を確実にものにする、できれば昨年より高い金額で、が効率が良いと感じた。新規開拓は上級生が新年度の初めぐらいにめぼしい会社に文書を送付するなどして営業活動でもしておかないと、学園祭の前段で新規開拓は無理だと思った。

さて、我がボディビル部は五武道会という親睦団体を組織していて、応援団のリーダー部とともに警備を担当することになっていた。学ランを着た連中が今は無き55年館の教職員食堂に結集。応援団リーダー長からの激励に始まり、3年生が警備の主体となるため、各部の責任者紹介と会は進み、否が応でも緊張感が増してきた。

準備日の警備に入った自分と2年の先輩でキャンパス内を巡回したが、屋台を作っていた学生らから「ご苦労様です」の挨拶には面喰ったが、先輩からの説明で警備担当がある種の絶大な権力を持つ存在であることを自覚したのである。

※最近の学園祭のパンフレット表紙である。自分が現役学生時代には見開きのページから、当時は理解できない内容の文章が連なっており、今となっては理解できる内容だが、本ブログの趣旨からは外れてしまうので、ここでは書かない。

法政大学 学園祭パンフレット 2010年

大会参戦と狂気の学園祭

1年生の頃はすでに30年以上も前であり、断片的に記憶が抜け落ちている。初のパワーリフティング大会への出場が1年生時だったか2年生時だったか定かではないが、ボディビルの新人戦は1年時に出場したことをはっきりと覚えている。特に何の準備も無く、肌も白いままで出場。日焼けサロンというものが新宿あたりに出始めた頃だったが、減量してもいないのに肌だけ黒くしてもなあ、という思いもあり、というか金が勿体なくてサロンは利用せず。2年生の新人戦に向けては本格的に減量し日焼けサロンも利用したが、新宿の、名前は忘れたが、小寺さんと云うサーファーっぽい方が経営されていた日焼けサロンを利用した。

当時の料金設定など記憶に無い。やたら腹が赤くなるので、タオルでプロテクトして焼くという原始的な焼き方(笑)いや、これはどんな優れたタンニングマシーンでも、一番高くなる部分が早く焼けるのは仕方のないこと。2回に1回はタオルを腹に載せて焼いたのだった。腹と言っても鳩尾周辺であり、赤くなると痒くて痒くて・・・。

さて、1年時の大会は無欲のなんとかで、順位も何も覚えていないし、誰が優勝したかなども全く記憶に無い。会場は小田急線の「大根」という名の駅に近い東海大学だったが、前夜は同期宅に宿泊させてもらったと記憶している。石川君ね。今もFacebookで繋がっています。

そんなこんなで秋のスケジュールをこなして、11月末に開催される自主法政祭に突入しました。これについては次回ブログで詳しく。狂気、ですからね・・・。

やっと部員として承認

合宿から帰ったのが8月の9日あたりだったと記憶しているが、当時、東武練馬駅近くに住んでいた自分は、部屋に入るなりぐったりと寝込んでしまい、3,4日何をするでもなく朦朧として過ごしていた。もちろん食事や洗濯はしていたが、なかなか帰省する気になれなかった。

解散時に、疲労が抜けたら各自体育館に来てトレーニングするようにと、上級生から通達があったが、帰京後3,4日とその後の帰省中の2週間余りは何もせずに過ごしたと記憶している。寝て、飯食って、寝ての生活はまずいと思い、近所のガラス工場でバイトでもしようかと高校の同級生を頼り、帰省中はアルバイトに精を出した。ただ、深夜のアルバイトだったため、夕飯を食べてから出勤するため、親の小言が煩かった。当時の労働基準法がどうだったか知らないが、18歳で深夜アルバイトは当然OKだったはず。

しかし、夏の、それも酷暑の名古屋の夏に、ガラス工場のアルバイトは過酷だった。かろうじて待機部屋は冷房が効いていたが、作業場はほぼ「灼熱」。後で知ったが、その会社は有名なガラス会社で、アデリアグラスという食器ブランドで知られていたのでした。

このアルバイトでいくらか稼いだだろうが、その額は記憶に無い。朝、仕事から帰ってきて部屋で寝ていることを、仕事から帰った父親にクドクド言われるのが嫌で、早く東京に戻りたかったというのが本音。」だが、働く期間を事前に申請していたので、途中で穴を開けるわけにはいかず、帰京前日までアルバイトに没頭していた。

当時、後期開始は9月16日だった。15日が敬老の日だったため、学年暦上の後期開始が15日でも、実際は16日が初日だった。

その日、体育館1階の会議室に全部員が集合し、1年生が部のバッジを4年生から授けられた。これで正式な部員となったわけだが、そうなるとそれまでは仮の部員だったわけで、夏合宿は正式部員への登竜門だったのだとその時になって気が付いた鈍感な18歳の俺だった。

さて、後期の合同練習が始まったが、思いの外扱う重量は減っていなかった。性格に似合わず、丁寧にバーベルを扱うことを信条としていたため、前期4か月でベンチプレスが80キロを3回ぐらいしかやれていなかったし、スクワットは腰を痛めるのが恐くて80キロ程度しか担いでいなかった。トレーニング時の重量は自分で決める習慣だったので、先輩から「もっと重いのやれよ」などと言われたことは無かったが、個人的に「90キロにして回数減らしてみたらどうか」などの指摘を受けつつ、次第に重い重量へ挑戦する気持ちが高まって行った1年生の秋だった。